「あれから一年」

3月9日(金)に総勢54名を送り出す卒業式を無事に終えた。最近また地震が毎日のように福島・茨城近辺で起こり、千葉の印西もそれを受けて揺れている。卒業式の間中、地震が起きないようにと祈りつつ、式を行わせていただいた。卒業証書を卒業生に渡し、お二人の祝辞の番になって少々緊張気味に耳を傾けながらも、一年前のその時の大揺れを思い起こさずにはおれなかった。今年は特に、来年度4月からの大学院(神学研究科)の設置にともない、62年半あまりの歴史をもつ神学校の「閉校式」も併せて予定していたので、すべてが無事に終了したときには安堵の胸をなでおろした。

3月11日が日曜日となり、教会の礼拝の中で、所属教団が一斉に心を合わせて祈る「東日本大震災から一年を迎えての私たちの祈り」に唱和して、1万5千人以上の犠牲者を偲び、そのご遺族の心情に心を寄せつつ、被災者や原発事故等で全都道府県に移って避難生活を強いられている約34万人の方々を覚えて、神の支えと助けを皆とともに祈った。おりしもその礼拝説教の聖書のみことばは、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神である主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」(ヨハネ黙示録4:8)であった。天上での神をたたえる賛美の礼拝に心を向けつつ、「あれから一年」の日本の東北・関東の地に思いを馳せた。そこは、瓦礫の撤去が大分進んだものの、地盤沈下や液状化現象、土中の塩分や放射能汚染などで今も呻いている。ご遺族や被災者・避難者の苦悩は今も続く。天上の礼拝と地上の現実との落差は何を問いかけるのか。

東日本大震災はこれまでの私たちのあり方や考え方を大きく揺さぶるものであった。「想定外」の出来事として私たちの度肝を抜いた。地は大きく揺れ、大波がこれまで築いてきたものをことごとく飲み込み、放射能は多くの人々を散らした。人間が神であるかのように自惚れ、天地を支配できるかのように考え、人もその地も永遠であるかのように振舞う、私たち人間の「過信と驕り」を改めて突きつけられた。天上での礼拝での賛美は、天地の創造主なる神こそ、他の創造物とは区別される聖なる方なのであり、まさに万物の支配者なのであり、永遠の存在なのだということを「よくよく知れ」と頭をガツンと叩かれたように感じた。痛む人々に寄り添い、ともに労する働きとともに、創造主の神の前に人間はへりくだり、生かされていることを感謝しつつ、この神とともに生きる必要があることを深く探られる礼拝となった。

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)