「痛み悲しむ中で」

本学のかつての同僚であり、また、三つのキリスト教会でともに奉仕した友人の奥様が、去る1月14日(月)に天に召された。しかもご自分の69才の誕生日に、奇しくも自分の生まれた時刻に天に凱旋されたという。約4年間の病と闘いながら、夫婦で何回か旅もできその絆を深めて来られた。彼女の召天から約一ヵ月後に、私たちは夫婦で米国コロラド州デンバーに住む彼を見舞うことができた。西側にロッキー山脈を擁する空気の澄み切った町に彼は今一人で住んでいる。奥様とともによく散歩した公園に私たち夫婦を案内してくれた。一歩一歩彼女の足跡を辿るかのような足取りに、最愛の伴侶を天に送った寂しさが伝わってくる。

しばしの時であったが、彼と私たちは奥様のことを思い起こしながら、十分語り祈り合った。その中で、印象深かったことばが「私は今、グリーフ・プロセスを辿っている」というもの。妻が召されてすぐは葬儀の慌しさの中にあり、その後は彼女に対する介護生活からの「解放(リリーフ)感」があった。だがその後は、寂寥感や苛立ちにその眠りが妨げられるこがしばしばあるとも話してくれた。その中で、出席している教会での教会学校奉仕、教会の小グループによる読書会、そして有志でのバードウォッチング旅行、そして近隣の町にある日本語集会での奉仕が、どんなに自分を慰め励ましているかを話してくれた。

その彼が、最後にある地域新聞の記事を見せてくれた。そこに写っていた人は、私にキリストの福音を伝え、私に洗礼を授けてくれた老宣教師であった。彼もまた、昨年の5月に奥様を天に送った一人である。このご夫妻にも私は高校生の頃お世話になった。その記事曰く。この老人は妻なき後、今後自分に主イエスは何を求めているのかを祈る中で、日毎に「日本に戻って福音を宣べ伝え、教会を建てよ」という迫りを覚えて、親族や牧師に相談する。相談を受けた彼らは、その願いを止まらせるよりは、進んで後押ししたという。この老宣教師は、今年2月、80才にしてもう一度この日本に宣教師として派遣されたとあった。この老宣教師の記事は、彼に大いなる励ましを与えているに違いない。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」(マタイ5:4)