「押し出す力、受け止める力」

ステパノ・フランクリン前学長の定年に伴う「退任記念講演」が去る3月7日(金)にあった。彼はキリスト教哲学・組織神学の専門家らしく、その講演題は「神の無受苦性、贖罪、高齢者ケア」という神学的発題で、大変興味深いものであった。「神の無受苦性」は歴史的な神学的議論であるが、フランクリン氏は「神の受苦性」の立場にたって無受苦性の議論を批評しつつ、神が人の罪を担い、苦しまれる方として、神の力は「押し出す、積極的な力」のみならず、「苦しみを担い、受け止める力」でもあると語られた。そして、高齢期を迎える自分にとって、若い時の「押し出す力」だけではなく、「吸収する力、受け止める力」がより練られていくのではないかと話された。フランクリン氏は今後、特別教授として教鞭をとられる。

彼の退任記念講演の前日は、東京キリスト教学園の卒業式であった。東京基督教大学では20名、専修学校の東京基督神学校では19名が晴れて卒業した。一般的には少数といえる卒業生ではあるが、チャペルに450名あまりの参列者を得て彼らの卒業を祝い、キリスト教系の学園らしく、これまでの卒業生に対する神の導きと支えを覚えて感謝し礼拝をささげたことである。各校の同窓会総会も卒業式に合わせて開催され、同窓生たちも学園に足を運んでいただける機会となっている。卒業生は学び舎から地域教会の現場や実社会へと送り出されるわけであるが、そこでは、「押し出す力、積極的な力」が求められるであろう。大海に乗り出す小舟を嵐が飲み込もうとする力が襲いかかるであろうが、押し出す力とともに、その大波を上手に「受け止め、波に乗る力」をも育んで欲しいと思う。

明日16日からの一週間は、キリスト教暦では「受難週」と呼ばれ、キリストが罪の代価である死を我々人間の代わりに「受け止めて」十字架に苦しみ死なれたことを覚える週である。イエス・キリストは神のひとり子として、飢える者にパンを与え、病を癒し、嵐を静め、悪霊を追い出す「押し出す力」をお持ちになる一方、我々人間の最後の敵である「罪と死」をご自分の身に「受け止め、担われ」、我々のために「罪からの救い」の力を示してくださった。この力があってこそ、三日後に「復活の力」が備えられたのではなかっただろうか。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(1ペテロ2:24)