隣人となる時

「隣人となる時」(ルカ10章25~37節)

「良きサマリヤ人」のたとえです。しかし、このサマリヤ人が「良い」とは書いてありません。「サマリヤ人の良き業」ならまだしもですが、有名なたとえゆえの思い込みがあります。そうかと思えば、逆に意識していないこともあるでしょう。これは「永遠のいのちを得るために」どうしたらいいか、という議論なのです。「サマリヤ人のたとえ」は「永遠のいのちを得る」ためのたとえなのです。
このたとえ話、と言いましたが、実話に基づく可能性は大です。エルサレムからエリコへ下る道は、ヨセフスも「荒れ果てた石地である」と言い、その後の時代にもアラビヤからの盗賊で恐れられた場所だったようです。
アウグスチヌスは、このたとえを比喩的に解釈します。つまり、旅人はアダム、エルサレムはアダムがそこから堕落した天の都、エリコは人間の有限性を意味する月、盗賊はサタン、祭司とレビ人は救済のために何も為しえない旧約聖書の聖職者、サマリヤ人は主イエス、その慈悲の手段はキリスト教の教えのさまざまな側面、翌日は主の復活、デナリ二つは愛の戒めあるいはこの世の生活と来るべき世の生活の約束、宿屋の主人はパウロ、といった具合です。
しかし、私たちは歴史的文法的にこれを読みます。祭司とレビ人は倒れた旅人を助けるべき人として登場しながら助けません。それとは対照的に、ユダヤ人の旅人を助けるはずのないサマリヤ人がこれを助けるという意外さ。これがこのたとえ話の焦点です。
ここでサマリヤ人は「あるべき私」なのです。ということは祭司とレビ人は「現実の私」である。そのように律法の専門家に教え、今日の私たちに語りかけるのがこのたとえです。
「自分の正しさを示そうとする」彼らに、彼らの本当の姿を見せ、彼らが自らの偽善に気付くことを促すたとえなのです。
37節の律法の専門家の答、すなわち「その人にあわれみをかけてやった人です」までで終っていたなら、まさに、自分の正しさを示そうとする者の偽善をあばくたとえです。
しかし、このたとえは、さらにもう一つのことを加えずには終りません。
「するとイエスは言われた。『あなたも行って同じようにしなさい。』」
サマリヤ人のたとえは、自分の正しさを誇る罪を気付かせます。しかも、徹底的にそれをします。しかし、それで終りません。偽善を逃れ得ない人を新しい生き方に導くのです。
主イエスは、サマリヤ人を「強盗に襲われた者の隣人になった」と言われます。祭司とレビ人は旅人の隣人はずです。しかし、本当の意味で隣人ではなかったのです。それに引き換え、サマリヤ人は強盗に襲われた人の隣人ではないはずでした。旅人もサマリヤ人を嫌いこそすれ、彼を隣人と考えることなどなかったのです。
隣人と思われた人々が「反対側を通り過ぎてゆく」、それに対して、隣人などとは到底思えなかったサマリヤ人が、予想に反して、常識を覆して旅人の隣人となったのです。
「隣人」とは、民族的に同じとか、同じ地域に住んでいるという関係ではない。「隣人」とは「そうである」ものではなく「なる」ものなのです。
「あなたも行って同じようにしなさい」。これは主の命令です。
このみことばを聴いた者は、自分の正しさを示そうとする生き方に気づき、それをやめなければなりません。主イエスが偽善を心底嫌われるからです。自分の義によって神に受け容れられるといううぬぼれは、とんだ勘ちがいだったと決定的に気付かなければなりません。
私たちは、主イエスの愛を知り、これを信じ、従う者になりました。しかし、キリストのように生きていません。その友のためにいのちを捨てる愛を知っていますが、友のためにいのちを捨てません。そのことをごまかすのではなく、取り繕うのではなく、嘘をつくのではなく、認めることです。
しかし、自分の正しさを示そうとしないことで終わりではありません。
自分に絶望したなら、後は天を見上げるだけです。そこには、私たちの罪のために死んでよみがえられたイエス・キリストがおられます。自分は良き人ではないと知ることは、私たちのうちにおられる良き方にすがることです。
主イエスは、良き人、正しい人に向かって「あなたも行って同じようにしなさい」と言われているのではありません。正しくない人に言われるのです。「あなたも行って同じようにしなさい」