社会の規範はどこに?

稲垣久和です。
2011年が明けました。昨年、TCUは20周年を迎えました。20年の歩みというのは長いようで、歴史の流れの単位としては短いものでありましょう。キリスト教世界には「荒野の40年」という言葉があります。昔のイスラエルの民が出エジプトをなしとげ40年の間荒野を旅したあとにカナンに入り定住しました。その歴史にちなんでしばしば歴史の節目として使われる言葉です。そういう意味では20周年は40年の半分、荒野のちょうどど真ん中にいる、ということになりましょう。あと20年も旅を続けなければ定住することがない、ということかもしれません。
しかし大切なのはその旅の途中で荒野を旅する指針を与えられた、ということです。広く律法と呼ばれているものですが、そのなかでも道徳律法の中心にあるとされてきた、モーセの十戒が与えられた場面のあとの記事にこうあります。「あなたがたは私と並べて銀の神々を造ってはならない。・・・また金の神々も造ってはならない」(出エジプト20:23)。
現代人の生活にはこの「銀の神々」「金の神々」を造ることがなんと多いことでしょうか。現代社会の生活を縛っているのは、実は「金の神々」いやこれは「かねの神々」と読むべき問題です。金つまりマネーということですね。「神を神として崇める」という生活ではなく、人々はマネーを獲得する生活、マネーゲームに踊らされている生活、この時代的病というものに目を注ぐべきでしょう。
もちろん現代人の生活が「金の神々」に縛られるようになった歴史的背景というものを理解しなければなりません。いわゆる資本主義社会、市場主義社会に飲み込まれた現代生活は確かにマネーがなければ生きていけない生活になっています。マネーなんか一銭もなくても生きていけた社会、家畜を飼い、農業を営んで生きていけた時代はもう二度と人類の歴史にはこないでありましょう。グローバルな南北格差があるとはいえ、科学技術の進歩を考慮すれば人類史の発展段階として二度とこないのです。
このモーセの十戒を読んで気がつくのは、「義務と禁止」という形で表現されていることですね。それでこれを道徳律法と読んできた意味がよく分かります。現代でもまず、社会生活の規範として、義務と禁止が与えられることには大いなる意味があります。特に「何でもあり」の現代の無規範な生活、「かねの神々」「マモンに膝をかがめる」類の現代人にしてみれば、明確な義務と禁止が与えられていることが社会生活においてどれだけ大切なことか。核家族化の中の親子関係の不安定さ、自殺率の高い社会、不倫記事の溢れる週刊誌、食品偽装などなど市場主義のマネーゲーム的「むさぼり」はあちこちに溢れている時代です。こういう時代に「父母を敬え」「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽証を立てるな」「むさぼるな」という道徳律があれば、資本主義社会はいかに「正義」が貫徹した社会であることか、と思われます。
とはいえ、もし私たちの生活が、義務と禁止条項だけの道徳律法だけで成り立っていたらたいそう息苦しいものになるでしょう。人間としてより積極的に生きる、より創造的に生きることが求められます。そのための規範性はどこに与えられるのか。ここで私たちキリスト者は新約聖書に教えられている規範性を見る必要があります。それは、律法は律法でも「新しい律法」とでも呼べるものです。
「あなた方に新しい戒めを与えましょう。あなた方は互いに愛し合いなさい・・・」(ヨハネ13:34)。
もちろん「神を愛することと、隣人を愛すること」は律法の要約として旧約聖書にもありますが、それ以上により明白に新約聖書のテーマになっています。もし道徳が「義務と禁止」と総称されるならば、この「愛の教え」は倫理的すなわち人と人を結びつける絆であるといえるでしょう。義務からでもなく自ら率先して「互いに愛し合う」ということであります。
現代の生活、経済形態で言えば、資本主義、市場主義に欠けているのはこの「愛」の精神です。資本主義、市場主義の特徴は自己利益追求の是認です。このような時代風潮の欠陥をあげるとき、「かねの神々」に仕えないようになるために多くの人が代案を出しました。日本の賀川豊彦は「友愛の経済学」を提唱しました。昨年は賀川豊彦没後100年にあたり、私も神戸の賀川記念館で何度か賀川の現代的意義について議論してきました。彼は、並外れたスケールの大きい日本を代表するクリスチャンでありましたが、彼自身の働きは残念ながら日本のキリスト教界では十分に継承されてきてはいません。今の聖書の箇所との関係で言うならば、彼は人々がマネーゲームに走ってその後遺症から大恐慌をもたらした1930年代に「友愛の経済学」を提唱し、アメリカでこれを講演し、出版し、たちまちに10ヶ国語以上に翻訳されました。彼はキリストの十字架の贖罪愛を強調し、「互いに愛し合う」という倫理的な教えを経済生活に活かしました。具体的には、協同組合運動を提唱しそれを日本に広げることに尽力しました。そこからスタートして日本でも生活協同組合に相当するものは大いに発展し、いまや日本人の2割近くが生協の会員だといわれています。賀川自身の信仰は正統的な贖罪信仰であることは「
友愛の経済学」の次の箇所からの引用からも明らかです。
「即ち、十字架愛は、再創造を意味する贖罪的回復であると共に、単なる創造の世界に対しては、第二の創造を意味する新しき発展である。誠に十字架愛に於てのみ、総ての失業者を抱擁し、総ての恐慌に依れる損害を弁償する大きな愛となつて現れて来るのである」(「キリスト教兄弟愛と経済改造」188頁)。
「互いに愛し合う」、ここに新しい年、日本で福祉社会を作っていくスタートがあるのではないでしょうか。