「老練な二人の方との出会い」

忙しく動き回る生活の中で、時おり、「緑の牧場」に導かれ、「いこいの水のほとり」にともなわれることがある。その一つは、円熟した大人たちとの人格的な交流である。彼らとのゆったりとした語らい、互いを気づかい、率直に、しかもユーモラスに、ときに教訓的に、ときに慰めに満ちた励ましに、時を忘れる。互いの信頼感と価値観の共有から来る安心感はたまらない。特に、キリスト信仰の絆はこれに拍車をかけるものとなっている。

お二方には、先週の金曜と土曜にお会いした。その出会いは実に興味深い。お一人は三四年前にお会いした韓国人で神学大学院の教授であった方である。日本と韓国の神学研究会議でお会いしたのがきっかけとなり、以後毎年交流を深めてきた。彼は本学の教員育成に並々ならぬ関心と重荷をになってくださり、定期的に彼が所属する教会を通して支援していてくださる。彼との交流と語らいの中で、彼の「人を育てる」姿勢におおいに励まされ、教えられる。最近、大病をされたが、そのご経験を聞く中で、いよいよ彼の人格的な深みに触れる機会となった。

もうお一人は、30年ぶりにお会いした米国婦人で、大学生時代にお世話になった方である。1958年から1988年までの30年間日本に滞在し、日本の大学生たちの傍らにいて、よく私どもの戸惑いや疑い、迷いに耳を傾けてくださったクリスチャンの先輩である。同時期に関わった者たち9名と時間をかけて当時の思い出話や互いの近況を分かち合い、それぞれの人生の導きを互いに語り合うことができた。彼女も1980年代後半からの精神的なストレスの中で、自分自身と格闘したことを聞いていたが、こうして再び来日することができるまでに回復したことは感謝であり、私たちにとっても励みとなった。「私たちの最善は、最も深い苦しみから生まれるのかもしれない。」(デイリーブレッド9/10)と言われるが、お二方を通して深く探られた思いがする。「私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。」(詩篇138:7)