「孫ミネ姉を偲ぶ」

ちょうど1週間前の9月26日(土)午後1時31分、本学と併設の東京基督神学校2年生の孫ミネ姉が、突然、心臓の不整脈のため主のもとに召された。27才若さである。しかも、土日と奉仕する教会へと向う途中であったという。前々から少し心臓に弱さを持っておられたが、それゆえに、残された生涯を日本のまだ主イエス・キリストを知らない人々に仕えようと志し、その準備のために日本で神学の学びに励んでいた矢先のことであった。韓国から駆けつけたご両親とお姉さんの悲しみにあって憔悴しきった姿が今も脳裏によみがえる。奉仕教会の牧師の司式のもとで葬儀が学園チャペルで行われたのが今週の月曜日、そして、出棺と火葬が火曜日の朝に執り行われた。級友を突然この地上で失った神学校の学生たちの驚きと戸惑いはいかばかりであっただろうか。

私も今学期、彼女が受講していたクラスを一つ担当している。葬儀後のクラス再開で教室に行くと、何とそこに一輪の花が机の上に飾ってあった。級友たちはともに過ごしたクラスでの彼女を偲んでいる。彼女の分も一緒に授業を受けようとしている彼らの心遣いと優しさに心を打たれた。本学の約25%は外国人留学生である。色々な国から来ているが、幾人かの留学生に日本におけるキリスト教葬儀について感想を聞いてみた。ある学生たちにとって、本国で遺族が黒のスーツやドレスを着ることがあっても、出席者全員がみな「黒のスーツやネクタイ、ドレス」を着ることには驚いたようである。彼らの目に圧倒的に迫ってくる「黒」が異様に映ったことだろう。他には、棺の中にある遺体の周りを花で飾る行為も初めてであったようで、少し怖くもあったと語っていた。同じキリスト教葬儀であっても、そこにその国の文化が反映されていると言えよう。

「孫姉の死」の意味を多くの学生たちは問うているに違いない。その意味を探し出すことも容易ではないし、そうすることが相応しいことなのかとも思う。でも、この出来事の意味を「神学」するのは、神学校の学生にとって大切なことであろう。これから彼らの多くは「牧師」として立つが、やがて、自分も含めた多くの人の「死」に向き合わねばならない時が来るからだ。私も外国で学んだ経験を持つ者として、孫姉の日本での学びがどれほど大変であったかと思う。しかも、将来はこの日本で主イエスと人々に仕えようとしていた。その志しを持つ若者がいち早く召し上げられたのである。この出来事は、日本の若いキリスト者に奮起を促がし、孫ミネ姉のごとく、いよいよ、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えよ。」(ローマ12:11)と迫っているように思えてならない。