「いのちの主」~コラム

中高生向けの聖書コラム「TCUだより」を、ブログ形式で公開しています。
皆さんがキリスト者として将来を考える上で、少しでもお役に立てれば幸いです。


2018年度も残りわずかとなりました。知らず知らずのうちに溜まった疲れが出てくる時期でもありますが、皆さんどのような思いで過ごしていますか?今回は「いのちの主」とタイトルを付けました。疲れた時も、やる気が出ない時も、もうひと頑張りしないといけない時も、私たちを生かしてくださるのは主。御言葉から、麗しいいのちを受け取りましょう。

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見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。(エゼキエル37:2b)

印象的な描写です。これは預言者エゼキエルが主に導かれて目にした幻ですが、現実離れしたSFやファンタジーとは違います。当時イスラエルの民は、バビロン捕囚の時期を過ごしていました。自分たちの国は征服されて、人々はバビロニア帝国への移住を強いられます。肉体的な苦しみは大きなものではなかったかもしれませんが、都エルサレムを失うことは礼拝の場を失うことでもあり、真の神との結びつきにおける喪失感は彼らにとって大きな試練だったと思われます。彼らはこのバビロン捕囚を通して飢え渇きを経験しました。まさに、主がエゼキエルに見せた幻、干からびた骨のようです。
私たちも、干からびたように自らを失ってしまうことがないでしょうか。必死に努力したことが実を結ばなかったり、変わっていく環境に心が追い付かなかったり、大きな支えを失ったり、特に原因はないけれどどこか満たされないものを抱えていたり。神様を信じていても、聖書を読んでいても、祈っていても、そのような飢え渇きを経験することがあります。神様はそのような人々に深い憐れみを示し、エゼキエルに言葉を託しました。

『干からびた骨よ、主の言葉を聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚で覆い、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』(エゼキエル37:4-6)

主は「わたしがおまえたちに息を吹き入れるので」と言われます。もちろん、肉体も神様が形作ってくださった尊いものですが、それだけでは生きることができません。創世記2:7に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とある通り、神様の息が吹き込まれて初めて生きるようになるのです。また「息」という言葉は「霊」とも訳されます。創造のはじめから、バビロン捕囚の時も私たちが生きる現代においても、人のうちには神の霊の住まいがあり、そこに神様が住まわってくださることなしに麗しいいのちは得られないのです。
クリスチャンなのに、聖書を読んでいるのに、祈っているのに、何が足りないんだろうと思うかもしれません。しかし、真面目な信仰生活を送ること=神様の霊が自らのうちに住まわっているとは限りません。神様が吹き込んだご自身の霊を締め出して自分が人生の主になろうとするのではなく、主が主であることを知りましょう。ちりである私たちに息を吹き込まれる主を自分の人生の主人としてお迎えしましょう。そうしていくときに、干からびた骨が麗しいいのちへと変わっていくことを経験します。

わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。(37:13)
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(37:27)

皆さんの歩みのうちに、恵みの川が流れますように。

(hi-b.a.スタッフ 国府田祝子)