学長1カ月

学長に就任し「自分自身と群れの全体に気を配る」(使徒20章28節)ことに努めて1カ月を過ごしました。57名を迎えた入学礼拝、オリエンテーションを見直しました。新入生を友として歓迎し霊的な共同体を形成することを目標に、在校生代表と新入生代表のことばを聴き、ウエルカム・ランチ、インフォメーションの削減、何でも案内所の開設、在学生の静まりのとき、留学生のアクティビティー、学生ガイドブック等々、教職員と在校生が積極的にアイディアを出し合う積極的な取り組みでした。第3期中期計画の初年度、大学改革のコンセプトに「Stand in the Gap 破れ口にキリストの平和を」を掲げ、教育・学生支援のさらなる充実をめざしたいと思います。

6月29日チャペル黙示録14章「怒りの葡萄か喜びの収穫か」

怒りの葡萄か喜びの収穫か

黙示録14章1~20節

 

はじめに

 

黙示録には身の毛もよだつような終わりの日の恐ろしいさばきが繰り返し語られています。七つの封印が解かれ、七つのラッパが吹き鳴らされました。あとは七つの鉢がぶちまけられるだけです。ただ、黙示録の中心的なテーマは恵みです。黙示録を締めくくる最後のことばは、「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」です。

14章1節「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた」。これは12章18節の「そして、彼は海べの砂の上に立った」と対になっています。

12章17~18節「すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫(神の民)の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。」そして13章では「竜」サタン、竜に力を与えられた「獣」王権、「もう一匹の獣」にせ預言者が登場します。

13章16節から17節には右の手か額に獣の刻印を押された者たちが出て来てこう言われます。「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である」。

獣の数字666は、完全数7に足りない6が三回重ねられた、不完全な人間を象徴する数字と思われます。

こうした光景と好対照に描かれるのが14章です。

14章1節「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」

ということで、14章1~5節には、13章の竜や獣の暗躍から一転、「小羊の王国と十四万四千人」の輝かしい様子が描かれます。これが今日の第一の部分です。次に6~13節は「3人の御使いと審判の告知」、さらに14~20節は「二つの収穫」という内容となります。

11章15節で第七のラッパが吹かれ、だいぶ飛んで15章にその災いが記されます。今日の箇所は、その間に挟まれた12~14章の最後の部分です。

 

1、「小羊の王国と十四万四千人」(1~5節)

 

1節の「十四万四千人」は、7章4節に出てきた救われる民の総数です。十四万四千は、実際の数ではなく象徴的な数です。完全数の12×完全数の12×1000。

竜が立つのは「海辺の砂の上」、これに対して小羊は「シオンの山(エルサレム)」の上に立ちます。獣の刻印のある者と、小羊の刻印のある者、666と言う中途半端な不完全数と144,000という完全数、すべてが好対照です。

2節「私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった」。「十四万四千人」の声です。救われたすべての者の大合唱です。

3節「彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」

7章10節に、「十四万四千人」が「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある」と大声で叫ぶ、とあった通りです。

4~5節「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」

「童貞」(パルテノス)は「純潔、処女」とも訳されることばで、ここでは象徴的にキリストの花嫁である教会の霊的な純潔が言われています。Ⅱコリント11章2節に「私(パウロ)はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです」とあるのと同じです。

「十四万四千人」には3つの特徴がありまして、その一つがこの純潔性、二つ目は「小羊が行く所には、どこにでもついて行く」という、牧者なるキリストに守られる姿、そして「彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである」という神への捧げものという特徴です。

 

2、「3人の御使いと審判の告知」(6~13節)

 

ここには3人の御使いが告げた審判のことばがあり、最後に天からの声が救われる者への祝福を告げます。

最初の御使いは、さばきの時のが来たことを告げます。

6~7節「また私は見た。もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼らは大声で言った。『神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。』」

次の御使いは、神の怒りとさばきを宣告します。

8節「また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。『大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。』」

「大バビロン」はローマ帝国を暗示しており、誰でもそれとわかりました。

第三の御使いも、神の怒りとさばきを宣告します。

9~12節「また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。『もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像を拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。』」

「神の怒りの杯」「神の怒りのぶどう酒」、17節以下にも「ぶどう、ぶどう酒」は神の怒りを表しています。スタインベックの『怒りの葡萄』は、世界恐慌の中で苦しむオクラホマの農民一家を描いてピューリッツァー賞を受賞した作品ですが、この黙示録14章の神の裁きから題名をとっています。

13節「また私は、天からこう言っている声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」』(山上の説教風に訳せば、「幸いなるかな。今から後、主にあって死ぬ者は」です。)御霊も言われる。『しかり、彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである』」

 

3、「二つの収穫」(14~20節)

 

14節「また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。」

収穫の秋が来ました。喜ばしい収穫です。

15~16節「すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。『かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから(地の収穫物は乾いています)。』」そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。」

この刈り入れは、申すまでもなく救われる人々が集められることを表します。これに対してぶどうの刈り入れは滅びに至る人が集められることを意味しています。

17~18節「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。『その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。』」

19~20節「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れられた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった」

脚注に1スタディオンは185メートルとあります。千六百スタディオンは29万6千メートルです。

 

おわりに

 

以上、黙示録14章は、13章の竜サタンと獣の支配から一転、「小羊の王国」の到来を告げていました。

竜が立つのは「海辺の砂の上」、小羊は「シオンの山(エルサレム)」。獣の刻印のある者と、小羊の刻印のある者。666と言う不完全数と144,000という完全数。大バビロンと新しいエルサレム。裁きを告げ知らせる声と救いを告げ知らせる声、そして喜ばしい穀物の刈り入れと恐ろしいぶどうの刈り取り。そのコントラストは鮮やかでした。

「怒りの葡萄か喜びの収穫か」あなたはどちらを望みますか。聞くまでもありませんね。

ここから見渡せば、ここには「神の怒りのぶどう酒」を刈り取るぶどう畑ではなく、黄金色に色づいてキリストの刈り入れを待つ麦畑が広がっています。ここにいる全員が144,000人の中に加えられるべき方々です。そして額には小羊の刻印を帯びています。パウロは「私は、この身に、イエスの焼き印(スティグマ)を帯びている」(ガラテヤ6章17節)と言いました。

佐倉の臼井城主の子として生まれた原主水は、キリシタンの信仰のゆえに徳川幕府の迫害を受け、額にクルスの焼き印を押されて追放されました。原は、これを誇りとして江戸に潜伏して布教を続け、キリストの苦しみの欠けたるところを満たしました。こんな先輩が身近にもいます。

額に焼き印はともかくも、聖霊の焼き印を心に受けた者として、神の収穫物となり、初穂のささげものらしい生き方をして行きたいものです。

6月28日教会教職チャペル黙示録13章「獣と竜ともう一匹の獣」

獣と竜ともう一匹の獣

黙示録13章1~18節

 

はじめに

黙示録では6章以降、七つの封印が解かれ、次いで七つのラッパが吹き鳴らされる、そして最後に七つの鉢がまけられる。と続きます。11章から13章にかけては第七のラッパが吹き鳴らされた後、七つの鉢がまけられる前の部分です。11章から13章にかけては神の民の苦難の期間が42か月、1260日、「3年半」と言われるのが特徴です。3年半の苦難は長い苦しみです。しかし、やがて「キリストとともに、千年の間王となる」と言われる「千年」と比べれば、ほんのひと時に過ぎません。黙示録が書かれた95年ころ、教会は「3年半」の試練の中にあり、黙示録は彼らを励まします。以来、私たちは、永遠を望みながらこの「3年半」の時を過ごしているということになります。

11章には代々の教会のシンボルとして「二人の証人」が登場しました。12章では、教会が子を産む「女」として登場し、「竜」サタンと戦います。そして、「竜」サタンは投げ落とされます。ところが、そこで「竜」サタンは最後の反撃に出ます。

17節「すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。」

 

  • 海からの獣(1~10節)

 

1節「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。」

これは「獣」です。竜は12章3節。「見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた」。二つを並べて間違い探しをしたいような、良く似た姿です。一方、教会のシンボルである女は、12章1節に「太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた」とありました。

2節「私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に自分の力と位と大きな権威とを与えた。」

ダニエル書7章2~8節(p1461)には、4頭の大きな獣が出てきます。「獅子」「熊」「豹」に似ており、第4の獣は鉄のきばと10本の角を持っています。黙示録ではこれらが一つになった獣です。ダニエル書7章17節以下では、これらは4人の王、バビロニア、メディア、ペルシャ、ギリシャの王を指していると解説されています。

黙示録の獣が、これを受けていることは明らかであり、これが王を表していることもまた明らかです。1世紀の末、黙示録の年代を95年と推定すると、獣はローマ帝国のドミティアヌス皇帝を指していました。いやネロを指す、限定すべきでない、いろいろな見解はありますが、王を指して「獣」と呼ぶ黙示録はまことに政治的な色合いを帯びた啓示と言えるでしょう。

3~4節「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、『だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう』」

これは69年にネロが失脚し自殺した後、4人の皇帝の混迷の時代を経てローマ帝国が権威を回復したことを指していると思われます。あるいは、その後も時に凶暴な国家が繰り返し現れることをも示唆しているでしょう。

「獣」と呼ばれる王は、いつも「竜」と呼ばれるサタンによって立てられているのではなく、「人に益を与えるための神のしもべ」(ローマ13章)なのです。それが時に、竜が権威を与える「獣」ともなるという警告です。

5~7節「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。そこで彼はその口を開いて、神に対する汚しごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」

「天に住む者たち」とは、天使たち、あるいは召天した信徒たちだけではなく、神の民全体を含んでいると考えられます。「住む」は「幕屋を張る」ということばです。これは8節の「地に住む者」と対比されます。12節と14節にも出てきます。

8~10節「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名のかきしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。耳のある者は聞きなさい。とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある」

「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない」は、「剣で殺されるべき者は剣で殺される」とも訳し得るところで、新共同訳、岩波訳、NIVもこれを採っています。エレミヤ43章11節、「彼は来てエジプトの国を打ち、死に定められた者を死に渡し、とりこに定められた者をとりこにし、剣に定められた者を剣に渡す」が基になっていることから考えると、ここは「剣で殺されるべき者は剣で殺される」の方が自然でしょう。

皆さんは、「天に住む者たち」でしょうか。「地に住む者たち」でしょうか。天に属する者たちでしょうか。それとも地に属する者たちでしょうか。

 

  • 地からの獣(11~18節)

 

11節「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。」

主イエスは予告されました。にせ預言者は「羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」(マタイ7章15節)。まさに、にせ預言者が小羊のなりをしてやってきます。

ここで、2~3章に記されていた小アジアの7つの教会のことを思い出して下さい。「にせの使徒」はエペソ教会を惑わしていました(2:9)。「にせ預言者」イゼベル(2:20)はテアテラの教会を混乱させ、「バラムの教え」(2:14)や「ニコライ派の教え」(2:6、15)はペルガモの教会を偶像礼拝に巻き込んでいました。ペルガモには「サタンの王座」(2:13)と呼ばれる皇帝礼拝の神殿がありました。「にせのユダヤ人」は、スミルナ、フィラデルフィアの教会を苦しめていました(2:9、3:9)。

何と「にせの教え」が多かったことでしょう。黙示録の教会は、「にせの教え」と闘いながら、王の迫害に耐える信仰の戦いを続けていました。

12~13節「この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む(属する)人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。」

これが何を指すのかは不明ですが、主イエスはマルコ13章22節でこのように警告しておられます。「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます」

キリストは、しるしとして様々な奇跡を行なわれました。しかし、しるし、奇跡が大切なのではなく、十字架と復活がなくてはならないことだったことを肝に銘じましょう。しるし、しるし、と言って十字架から目を離してはいけません。

14~15節「また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」

4月11日大学院チャペル黙示録12章「女と竜」

女と竜

黙示録12章1~18節

 

11章では、聖所を測る幻の後、二人の証人が殉教し復活する、つまり苦難の中で守られて証言を続けるという幻が示されました。そして、15節で第七のラッパ、終わりのラッパが吹き鳴らされると、天に大合唱が起こり、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される」と神を賛美します。ついで17節では、二十四人の長老たちも神を礼拝して言います。「万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します」。

黙示録の幻は繰り返されています。七つの封印が解かれる、これが一つのサイクル、次いで七つのラッパが吹き鳴らされる、そして最後に七つの鉢がまけられる。このように、神の裁きと救いの完成、神の民の試練と恵みが、繰り返し語られます。これらの啓示は、2~3章に記された小アジアの7つの教会への使信と関係していますし、聖書の啓示の頂点に位置付けることができます。

11章から13章にかけては42か月、1260日、「3年半」という苦難の期間が示されます。これは長い苦しい期間です。しかし、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる」と言われた「千年」と比べれば、ほんのひと時に過ぎません。

さて、11章の「二人の証人」は代々の教会のシンボルでしたが、今日の12章では、教会は子を産む「女」として登場し、「竜」サタンと戦います。

 

  • 女と竜(1~6節)

 

1~2節「また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた」

壮大なしるしです。「太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶる」。「太陽を着て」、とは光を纏っているのでしょう。この「女」は、旧約・新約の神の民、教会のシンボルです。神の民の苦難の歴史の中で、約束のキリストが生まれます。新約の教会の苦難の歴史の中でキリストが再び来られます。

3~4節「また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。」

天に現れたしるしは、その目に映るスケールも壮大ですが、内容も壮大です。この聖書全体における神の民とサタンの闘いを示しています。

ダニエル書8章10節には「それは大きくなって、天の軍勢に達し、星の軍勢のうちの幾つか地に落として、これを踏みにじり」とあります。

5~6節「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった」

キリストのことですね。そして、その昇天後の教会の苦難、しかし、その中での守りです。

 

  • 投げ落とされる竜(7~12節)

 

7~8節「さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたち応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。

ダニエル12章1節には、「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる」

9節「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた」

「竜が投げ落とされる」ことには3つの局面があります。

  • 創造における転落 イザヤ14章12、15節
  • イエスの公生涯における転落 ルカ10章18節
  • キリストの来臨における転落 黙示録20章10節

10~12節「そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。『今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。』」

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った」。教会の勝利は、無力と思われるものの力によります。「小羊の血」と「自分たちの証しのことば」のゆえの勝利なのです。

黙示録は、最初から「小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに」生きる者へのことばでした。1章9節、そしてスミルナの教会へのことばも聴きましょう。3勝10節です。

 

  • 怒る竜(13~18節)

 

13~18節「自分が地上に投げ落とされのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大鷲の翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。」

そして13章へと続くことになります。

竜、サタンの怒り、恐ろしいことです。しかし、それも苦し紛れの、断末魔の反抗に過ぎません。それは「一時と二時と半時の間」という限られた期間です。

ダニエル書12章7節「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する」

6節と14節は、荒野での守りを語ります。

クリスチャンおよび教会は、ここにこの世における苦しみの意味を知るのです。つまり、それは荒野での養いです。困難や苦しみも神の許しなしには起こりません。人はそこにいる時、なぜこのような困難が、と思うでしょう。しかし、困難の中でこそ神の守りは明らかとなるのです。

 

終わりに

 

サタンについて軽率なことを言うべきではありません。これはサタンの働きだとか断定することは危険なことです。しかし、今日のグローバル化した世界において、経済も政治も巨大なシステムに組み込まれ、思うようにならない方向にひかれてゆくということがあるように思います。そして、その背後に悪しき霊、サタンの働きがあるということは覚えておかなければなりません。地に落とされたサタンは、怒り、最後のあがきをしています。

しかし、最終的な、圧倒的な勝利は神と神の民にあります。また、主の民は荒野に逃れるというような経験をすることがあります。しかし、神はそこに私たちを養う場所を用意しておられるということは確かなことです。私たちの日常はそこにあるのです。

4月8日チャペル「やめよ。静まれ、力を捨てよ」

やめよ、静まれ、力を捨てよ

詩篇46篇10節

 

「やめよ、静まれ、力を捨てよ」これら3つのことばはみな、10節で「やめよ」と訳された動詞ラファ―の訳語です。新改訳は「やめよ」、文語訳と口語訳は「静まれ」、新共同訳は意訳で「力を捨てよ」です。

今日は、この個所から、昨日に引き続き「チャペルの重要性」について学びたいと思います。昨日は大和先生が「余白をささげる」と題して語ってくださいました。聴きながら、同じようなことだなと思い、よかったと思いました。反対のことは話し難いですからね。

チャペルは神の声を聴き、神をあがめる礼拝の時です。教会での主日礼拝とちがい、証しや報告が中心となることもありますが、それによって神をあがめる時です。人間を中心にする時ではなく、神を中心にする時です。あらゆる営みを中断し、神の前に出て、み言葉に耳を傾けます。「やめる時、静まる時、力を捨てる時」です。

 

それでは詩篇46篇を朗読しましょう。

詩篇46篇1~11節

ご存知のように、これはマルチン・ルターの愛唱詩篇です。ルターはこの詩篇46篇に基づいて、あの有名な賛美歌「神はわがやぐら」を作詞作曲しました。

「神はわがやぐら、わが強き盾、苦しめるときの、近き助けぞ」1529年の作品です。ルターは神学的闘いの中で、この詩篇から繰り返し慰めを受けました。近年では、東日本大震災の後、大津波と共に押し寄せた苦難の中で、信仰により如何に立つか、多くの人々がこの詩から励ましを受けたことを聞いています。

 

この詩は9節から戦争を背景にしていることが推定されます。「主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」。

また4節の「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない」という表現から、エルサレムあるいは天のエルサレムを舞台にしていることも推測できます。

エルサレムを巡る戦争で、詩篇46篇の背景として考えられるのは、紀元前701年のアッシリヤの王セナケリブによるエルサレム包囲です。当時、ユダの王はヒゼキヤ、預言者イザヤの時代でした。そのことはⅡ列王記18~19章に記されています。(旧p669)

大軍に包囲されてエルサレムは絶体絶命、ヒゼキヤ王は自分の衣を裂き、荒布を身にまとって嘆き、こう祈りました。

19:1「私たちの神よ、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」

これに対して、イザヤは主のことばを伝えます。19:20「あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。(中略)34わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために」

その結果驚くべきことが起こりました。35「その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で18万5千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた」

46篇5節後半の「神は夜明け前にこれを助けられる」とか、8節の「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」は、確かに、Ⅱ列王記19章に記されたセナケリブのエルサレム包囲と、主の守りと符合するように思われます。

 

もう一度、言いますが、詩篇46篇は、エルサレム包囲という甚だしい危機的状況、それは外面的にも内面的にも、不安と怖れに飲み込まれるような時を背景に詠まれました。あるいは死をも覚悟し、命がけで一心不乱に戦いに望もうという極度の緊張をはらんだ詩ということです。

2節後半「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」。そんな危機的状況の中で、1節「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない」のです。

7節と11節では、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」と繰り返されています。

 

以上、その歴史的背景をふくめて詩篇46篇をみました。この詩篇は戦争を背景に、人々が苦しむとき、国々が騒ぎ立つとき、どのように振る舞うべきかを語ります。それは、「やめよ(静まれ、力を捨てよ)。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」です。「やめ、静まり、力を捨てる」時、「神はわれらの避け所、また力。苦しむときそこにある助け」であり、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」ことに目が開かれるのです。

 

チャペルの重要性

 

昨日、大和先生は、このチャペルがキャンパス内の一番高いところにあり、一日の真ん中に、学園全体がこの山に登るのだという趣旨のことを話されました。良いイメージだと思いました。旧約聖書ではエルサレムへの巡礼を「都上り」と言いましたが、TCUは毎日、「都上り」する学び舎であるということは、大切なことです。

国際キリスト教学もキリスト教福祉学も含めて、TCUは神学部の下にあります。神学という学問は、小難しい議論をこねくり回すことを目標にしていません。神学がめざすのは、神を愛することと人を愛することです。これは教会と同じです。だだ神学では、これを感情より理性、批判力をもって吟味し、鍛えます。聖書に記された神のことばを、より正確に聴くこと、その力を養います。そして現代におけるふさわしい実践を理論的に導き出します。

そう考えますと、チャペルでの礼拝は、TCUでの神学のめざすところでありその研鑽の成果が表れるところと言えるでしょう。神学の学びの成果は、寮生活にも、教会での実習にも、そして皆さんの生涯を通して表されるでしょうが、チャペルもまたそのような時です。

神をあがめること、みことばに聴く態度、主にある交わり、それぞれの召しと使命の確認。教室での学びが実を結ぶ時としてのチャペルです。卒業予定者による卒業チャペルは、まさにそのような時です。私は、今年も30回くらいあるであろう卒業チャペルを楽しみにしています。皆さんも仲間の証しや説教を楽しみにしてください。

共に一つの賛美をもって主をあがめるということもすばらしいことです。日本の教会で伝統的な賛美歌あり、新しいワーシップソングあり、英語の賛美ありで音楽のスタイルは違います。しかし、それに心を合わせて心から歌う共同体として成長して行きたいと思います。

今日は、この後、学長による「共同体の祈り」があります。心を合わせて共に祈るということも、チャペルの大切な意義です。「主の祈り」に心を合わせて祈れるということは、信仰共同体のバロメーターでもあります。

 

おわりに

 

今日は、詩篇46篇10節「やめよ(静まれ、力を捨てよ)。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」からチャペルの重要性について考えてきました。

午前と午後の講義の間にチャペルでの礼拝があります。日々の「都上り」と思って、この低い山に登りましょう。私たちの学園生活の真ん中にこのチャペルを置きましょう。

3節の水は濁流です。それとは対照的に4節の川は清流です。ある人はこれをヒゼキヤの地下水路のことではないかと言います。全長533メートルに及ぶ地下水路は、エルサレム籠城戦の守りに不可欠なものでした。あるいは、黙示録に約束された新天新地の、水晶のように光るいのちの水の川を重ねてもよいでしょう。

学園生活の中で、濁流が魂を覆い、その水が立ち騒ぎ、あわだつというようなことがあるかもしれません。そんな時、チャペルで、清らかな流れに浸りましょう。

図書館や自室で勉強をしていて調子が出てきて、あるいは課題に追われていてチャペルに行っている暇がないという時こそ、それを中断しましょう。「やめよ、静まれ、力を捨てよ」です。そういう生き方を身につけましょう。私の人生は私のものなのだから、神さま入ってこないで、かつての私たちは考えていました。しかし今は、神さまに「やめよ、静まれ、力を捨てよ」と言っていただくことを受け入れる者、受け入れるだけでなく喜べる者になって行こうではありませんか。

 

祈り

主よ。今朝は、学園生活の中心におかれたチャペルの重要性について学びました。どうか、「やめる、静まる、力を捨てる」ことを知る者とならせてください。そして、主こそ神であることに繰り返し目を開かれ、神をあがめるチャペルの時を、御目にとめ、これを喜び祝福してください。イエスの御名で祈ります。

3月1日チャペル 第七のラッパとキリストの王国 黙示録11章1~19節

はじめに

 

3月を迎え、10日後にはもう卒業式です。今日は、卒業する皆さんと、これからの私たちの歩みがどこに向かうのかを、続けて開いている黙示録から学びたいと思います。先が見えない時代と言われます。実際、この数年がどうなるのか、深い霧の中に足を踏み込むような心地がします。

しかし、私たちが向かっているところは、究極的には明らかです。第七のラッパが吹き鳴らされ、キリストが王となられる。私たちがここをめざして歩んでいることは明らかです。この啓示は、紀元95年頃、ドミティアヌスの治世の迫害に直面し、悪しき時代に向かう小アジアの七つの教会を励ますものでした。

ここで特徴的なことは期間が書かれていることです。42か月(2節)、1260日(3節)、42に1カ月の日数30を掛けると1260になりますから、これは同じ期間です。12章6節にも1260日、13章5節に42か月とあり、これは年に直すと「3年半」です。実際の期間ではなく、黙示録の数字がすべて象徴的であるように、これも象徴的な期間と考えられます。

 

  • 神殿の幻(1~2節)

 

1~2節「それから、私に杖のような測りざおが与えられた(「測りざお」と訳されることばは、「葦」です。まっすぐな葦が測りざおとして用いられました。)。すると、こういう者があった。『立って神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ(神殿を測るという行為は、脚注にもありますようにエゼキエル書40~43章、ゼカリヤ書2章に出てきます。開かなくて結構ですが、エゼキエル書40章以下を見ると、「神殿を測る」ということは神の祝福を意味しています。バビロン捕囚から解放された人々は、神殿を測る預言に励まされて、やがてエルサレム神殿を再建することになります。黙示録では、救いが完成し天の神殿で天の礼拝に加えられるという約束につながっています。黙示録21章15節には、天の都を測るとあります。「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざお(葦)を持っていた」。天では測りざおまで金です。

しかし、2節、)聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。』」(神殿にはユダヤ人しか入れない内側の庭と、異邦人も入れた外の庭がありました。神の民は狭くユダヤ人のことではなく、広く神の民の全体を指しています。一方、異邦人は神に逆らう勢力です。

3節「それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する」。「それから」とあると2節の42か月と3節の1260日は別の期間ようですが、「それから」、接続詞「カイ」は「そして、また」であって、訳さなくても良いくらいのことばです。2節の42か月と3節の1260日は、同じ時を指しています。ふたりの証人は、神に敵対する者たちが聖なる都を踏みにじる期間、神の言をもって戦います。「荒布」は裁きの近いことを表すのでしょう。

42か月(2節)、日に直せば1260日(3節)、年で言えば3年半、この期間は神の民にとっては短くない試練なのですが、これは象徴的な数字です。1260日は20章6節に出てくる「千年王国」との対比であると思われます。キリストと共に治める勝利と祝福の期間は「千年」、これに対して迫害・苦しみは長く思われても1260日という限られた期間であるということです。

4節「彼らは全地の主の前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である」これはゼカリヤ書4章を受けています。これも開かずに聴いてください。

ゼカリヤ書4章11節「私はまた、彼に尋ねて言った。『燭台の右左にある、

この二本のオリーブの木は何ですか』」。14節「彼は言った。『これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ』」

燭台は、闇に光を掲げる教会を象徴します。黙示録では七つの教会が七つの燭

台と言われており、その教会を巡回されるキリストの姿が描かれていました。「日本のオリーブの木」と「二つの燭台」、3節の「二人の証人」は同じものをさしています。それは、この世界に神の言を証する「教会」を象徴しています。12章では「ひとりの女」が教会を象徴するものとして登場しますが、11章では教会は「二人の証人」として登場します。二人いないと正式な証言と認められない、それゆえの「二人」であると思われます。

このあと13節まで「彼ら」として出てくるのは、すべて「二人の証人」すなわち教会です。これを確認するように、10節には「ふたりの預言者」、12節にも「ふたり」と呼ばれています。ここにはキリストの証人として遣わされる教会の闘いが記されていると思いながら読み進めましょう。

5~6節「彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており(エリヤのようですね)、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている(これはモーセのようです)」

1~2節の神殿の幻では、神殿を測るという祝福、やがて天の神殿で神に仕えることができるという約束を与えられながら、神に敵対する勢力に踏みにじられもするという両面がありました。ここでもそうです。

7節「そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上ってくる獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す」(この「獣」は13章に改めて出てきます)。

8節「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである」。

ローマで、ペルガモやスミルナで、時代が下ればヨーロッパ各地で、近場では中国でも韓国でも日本でも、殉教者たちは、エルサレムのゴルゴダで十字架につけられたキリストと重ねられる。これは注目すべく、心すべきことです。

9節「『もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない』」3年半のうちのさらに一時、三日半、キリストが十字架にさらされたように、二人の証人もさらされるのです。悲劇としか見られなければ悲劇、光栄ととらえられれば光栄です。

10節「また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである」

もちろんふたりの預言者と呼ばれる教会は、悪いことをして苦しめたのではありません。罪の宣告、神の裁きと悔い改めを告げて苦しめたということでしょう。

11~13節「しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死に、生き残った人々は恐怖に満たされ、天の神をあがめた」

どのような迫害、苦しみの中でも教会はへこたれません。パウロは「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリ12:10)と言いました。主ご自身が、主に倣って自らの十字架を負うよろよろの教会に、計り知れない力をみなぎらせ、神を見させて下さるのです。

100年以上前の話ですが、プリンストンで学んだ森勝四郎という人が、1905年から高知で伝道をして群れが生まれ、やがて耶蘇基督之新約教会となります。妥協をゆるさない偶像礼拝拒否のゆえ1941年9月12日43名が検挙され、弾圧を受けました。その森勝四郎の言葉にこういうのがあります。「吾々が一番善い事をして、しかも一番悪い結果になり、其時に平安である事が、十字架の喜である」というのがあります。正しく生きて苦しみを受ける、苦しみの中で喜び、主の力に生かされる、という例は枚挙にいとまがありません。

 

  • 第七のラッパ(14~19節)

 

14節「第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」

8章13節、9章12節に続く、区切りのことばです。そして、いよいよ今日のクライマックスです。

15節「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』

第七の封印が解かれると、「静かな祈りの時」がありました。第七のラッパが吹き鳴らされるとキリストが王座に着かれます。この後、第七の鉢がまけられると裁きが成就し救いが完成します。

16~17節「それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。『万物の支配者、今いまし、昔います神である主(1章4節、8節、4章8節に「今いまし、昔いまし、後に来られる方」という尊称がありますが、ここでは「後に来られる方」ということばはありません。ここでは、もうすでに来られたからです)。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。』」

続く18節は、この間のことを説明して謳う詩文です。「『諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべたあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。』」

黙示録は、一世紀末の教会に、ローマ皇帝による迫害の中でも恐れることなく福音を証しし、キリストの御足の跡に従うよう励ましました。キリストが迫害されたように、キリストに従う者も苦しみを受ける。しかし、それも永遠の祝福に比べれば、ほんの一時のことです。私たちのゴールは「小羊キリストの王国」の完成です。私たちが遣わされたこの時代は、先が見え難く、迷い多い時代です。黙示録がはっきりとさし示すゴールをしかと見定めましょう。永遠の視点が定まると、先の見えない時代にも迷わずに歩めるのだろうと思います。

19節「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」

最も高いところに引き上げられる生き方は、もっとも低く仕えることです。卒業する皆さんの、キリストの苦難と栄光に与る生涯に祝福を祈ります。

教会教職者をめざす女性たち

現在、東京基督教大学の教会教職課程(学部と大学院)には、教会教職者をめざす女性が11人います。彼女たちが悩みや夢を分かち合うための祈祷会を始めました。本学としてもこれを応援してゆきたいと思います。

2月9日 学科専攻別チャペル(教会教職)「神の言葉は甘くて苦い」黙示録10章

2016年2月9日 学科専攻別チャペル(教会教職)

「神の言葉は甘くて苦い」黙示録10章1~11節

招き

エレミヤ15章16節「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」

はじめに

私の妻は料理上手ですが、毎日のことですから、つい慣れてしまって「おいしいね」の一言を忘れがちです。この「おいしいね」を忘れると実に「まずい」ことになります。長年の経験からアドバイスしておくと、「何がどうおいしいのか」という話題は食卓にふさわしいですし、おいしさも増します。さて神の言葉はどうでしょうか?毎朝早天で開かれるみ言葉、毎日チャペルで解き明かされるみ言葉、静思の時、説教の準備でも聖書を読み込みます。確かにみ言葉に生かされていますが、つい慣れてしまって神のことばの「甘さや苦さ」を忘れているということはないでしょうか。そのようなことを考えながら、今日のみことばを味わいましょう。

  • もうひとりの強い御使い(1~4節)

1節「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。」9章15節の4人の御使いは「時、日、月、年」すなわち時間を管轄していますが、この御使いは、空間、大自然の中に天と地をつなぐように立っているのです。

2~4節「その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き(天と地、地と海をつかさどる御使いの姿です)、獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、『七つの雷が言ったことは封じて、書き記すな』というのを聞いた。」そもそも1章11節で、「あなたの見ることを巻き物にしるして七つの教会に送りなさい」と言われたヨハネにより書き記されたのが黙示録ですが、ここでは書き記すなと言われます。

御使いは雲に包まれて天から降りて来る。頭上には虹があり、顔は太陽のよう、足は火の柱、それでもって雷鳴が轟く、まことにスケールの大きな幻です。このスケールの大きさとは対照的に、大きな御使いの手に「小さな巻き物」がありました。御使いの大きさとのコントラストで「小さな巻き物」なのでしょう。この巻き物は5章7節で、御座にすわる方の右の手から、小羊が受け取った、あの巻き物です。七つの封印で閉じられており、6章から8章の1節にかけて、その七つの封印が解かれたあの巻き物です。この「巻き物」と訳される単語はビブリオン、言うまでもなくバイブルの語源となることばです。ところが10章の2節で「小さな巻き物」と訳されている言葉はブラディオンです。9節も10節も「小さな巻き物」と訳されているところはブラディオンです。そもそもビブリオンとブラディオンは厳密に区別されるわけではありません。10章でも8節の巻き物はビブリオンです。聖書の記述は繊細です。おそらく、大きな御使いの手にある巻き物を映像として見ているところは、小さな巻き物、8節のように視覚ではなく声で伝えられているところは普通にビブリオンが使われているようです。ともかく、今までの巻き物とは別の小さな巻き物が出てきたわけではなく、小羊によって解かれた巻き物は、広げられた状態で大きな強い御使いの手にあり、これがヨハネに渡されるのです。

  • 強い御使いの宣言(5~7節)

5~7節「それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて(誓いのポーズです)、永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。『もはや時が延ばされることはない。第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する』。実は、今も神は忍耐をもってさばきの時を延ばし、恵みの時を与えて下さっているのですが、その終わりの宣言です。

  • 神の言葉は甘くて苦い(8~11節)

ここから新しい展開です。8~10節「それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った(御使いの誓いの言葉が終わると、「書き記すな」と言った天からの声が言います)。『さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。』それで、私は御使いのところに行って、『その小さな巻き物を下さい』と言った。すると、彼は言った。『それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』そこで私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」。バビロン捕囚の時代、神のことばを語るように遣わされたエゼキエルへのことばを思い起こさせます。

エゼキエル書3章1~3節「その方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。』そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった」。招詞としたエレミヤ15章16節には「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」とありました。詩篇119篇103節にも「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」とあります。エレミヤ書やエゼキエル書では、預言者が遣わされるという文脈で「巻き物で腹ごしらえをし」、「蜜のように甘い」、「私の楽しみ心の喜び」と語られていることに注意しましょう。神のことばを語る者は、神のことばを楽しみ喜びとして味わい腹ごしらえします。

卒業を予定している皆さんは、その備えができたでしょうか。教室での神学の訓練より、現場の方が楽しいという側面はもちろんあるでしょう。しかし、始まる働きは格闘、しかもその格闘は「血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するもの」(エペソ6:12)でもありますから、気を引き締めて働きに就いてください。そのために、みことばの甘さを味わい、力を蓄えていただきたいと思います。

先ほどエゼキエル書の3章1~3節を読みましたが、続く4節にはこうあります。「その方はまた、私に仰せられた。『人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。』」。11節には「さあ、捕囚となっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる』と彼らに言え」となり、14節には「霊が私を持ち上げ、私を捕らえたので、私は憤って苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた」とあります。さらに17~18節では、「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって警告を与えよ。わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義の中で死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」

黙示録に戻りましょう。10節後半、「それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」。救いの恵みは「甘い」のですが、裁きの宣告、悔い改めない民に語ることは「苦い」のです。神のことばは楽しみ、喜びです。それは「口には蜜のように甘い」のですが、裁きの宣言は「腹に苦い」のです。

11節「そのとき、彼らは私に言った。『あなたはもう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。』」明らかに派遣の文脈です。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(へブル1:1~2)。私たちは、この終わりの時代に、御子イエスの福音を預かって遣わされようとしています。最終ランナーのような世代であることを自覚し、手渡された福音のバトンをしっかり握り、走るべき道のりを走り抜いてまいりましょう。

大学院学生会「信教の自由を守る日」集会

2月9日(火)夜、大学院学生会主催の2・11「信教の自由を守る日」集会。布佐キリスト教会の児玉智継牧師による「教会の政治的自覚~牧師として考え、悩んでいることから~」。JECAの全国社会委員として信仰による社会的政治参与の責任のあり方を問い続ける若き牧師の姿を見せていただき、共感しました。大学院の学生たちを中心に、教会から信徒の方も参加されました。

ドナルド・ハグナー教授の特別講義

昨晩(2月8日)はフラー神学校名誉教授ドナルド・ハグナー教授の特別講義「新約聖書はどのように新しいか~新約聖書と旧約聖書の関係~」。近年の新約学ではキリスト教とユダヤ教の連続性が強調される傾向があるが、連続性と非連続性の両方が大切であることを「カイナ・カイ・パライア(新しいものと古いもの)」をキーワードに、ガラテヤ書・ローマ書(Ⅱコリントは時間切れ割愛)から、わかり易く語って下さいました。伊藤明生教授のご尽力に感謝いたします。