3月1日チャペル 第七のラッパとキリストの王国 黙示録11章1~19節

はじめに

 

3月を迎え、10日後にはもう卒業式です。今日は、卒業する皆さんと、これからの私たちの歩みがどこに向かうのかを、続けて開いている黙示録から学びたいと思います。先が見えない時代と言われます。実際、この数年がどうなるのか、深い霧の中に足を踏み込むような心地がします。

しかし、私たちが向かっているところは、究極的には明らかです。第七のラッパが吹き鳴らされ、キリストが王となられる。私たちがここをめざして歩んでいることは明らかです。この啓示は、紀元95年頃、ドミティアヌスの治世の迫害に直面し、悪しき時代に向かう小アジアの七つの教会を励ますものでした。

ここで特徴的なことは期間が書かれていることです。42か月(2節)、1260日(3節)、42に1カ月の日数30を掛けると1260になりますから、これは同じ期間です。12章6節にも1260日、13章5節に42か月とあり、これは年に直すと「3年半」です。実際の期間ではなく、黙示録の数字がすべて象徴的であるように、これも象徴的な期間と考えられます。

 

  • 神殿の幻(1~2節)

 

1~2節「それから、私に杖のような測りざおが与えられた(「測りざお」と訳されることばは、「葦」です。まっすぐな葦が測りざおとして用いられました。)。すると、こういう者があった。『立って神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ(神殿を測るという行為は、脚注にもありますようにエゼキエル書40~43章、ゼカリヤ書2章に出てきます。開かなくて結構ですが、エゼキエル書40章以下を見ると、「神殿を測る」ということは神の祝福を意味しています。バビロン捕囚から解放された人々は、神殿を測る預言に励まされて、やがてエルサレム神殿を再建することになります。黙示録では、救いが完成し天の神殿で天の礼拝に加えられるという約束につながっています。黙示録21章15節には、天の都を測るとあります。「また、私と話していた者は都とその門とその城壁とを測る金の測りざお(葦)を持っていた」。天では測りざおまで金です。

しかし、2節、)聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。』」(神殿にはユダヤ人しか入れない内側の庭と、異邦人も入れた外の庭がありました。神の民は狭くユダヤ人のことではなく、広く神の民の全体を指しています。一方、異邦人は神に逆らう勢力です。

3節「それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する」。「それから」とあると2節の42か月と3節の1260日は別の期間ようですが、「それから」、接続詞「カイ」は「そして、また」であって、訳さなくても良いくらいのことばです。2節の42か月と3節の1260日は、同じ時を指しています。ふたりの証人は、神に敵対する者たちが聖なる都を踏みにじる期間、神の言をもって戦います。「荒布」は裁きの近いことを表すのでしょう。

42か月(2節)、日に直せば1260日(3節)、年で言えば3年半、この期間は神の民にとっては短くない試練なのですが、これは象徴的な数字です。1260日は20章6節に出てくる「千年王国」との対比であると思われます。キリストと共に治める勝利と祝福の期間は「千年」、これに対して迫害・苦しみは長く思われても1260日という限られた期間であるということです。

4節「彼らは全地の主の前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である」これはゼカリヤ書4章を受けています。これも開かずに聴いてください。

ゼカリヤ書4章11節「私はまた、彼に尋ねて言った。『燭台の右左にある、

この二本のオリーブの木は何ですか』」。14節「彼は言った。『これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ』」

燭台は、闇に光を掲げる教会を象徴します。黙示録では七つの教会が七つの燭

台と言われており、その教会を巡回されるキリストの姿が描かれていました。「日本のオリーブの木」と「二つの燭台」、3節の「二人の証人」は同じものをさしています。それは、この世界に神の言を証する「教会」を象徴しています。12章では「ひとりの女」が教会を象徴するものとして登場しますが、11章では教会は「二人の証人」として登場します。二人いないと正式な証言と認められない、それゆえの「二人」であると思われます。

このあと13節まで「彼ら」として出てくるのは、すべて「二人の証人」すなわち教会です。これを確認するように、10節には「ふたりの預言者」、12節にも「ふたり」と呼ばれています。ここにはキリストの証人として遣わされる教会の闘いが記されていると思いながら読み進めましょう。

5~6節「彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており(エリヤのようですね)、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている(これはモーセのようです)」

1~2節の神殿の幻では、神殿を測るという祝福、やがて天の神殿で神に仕えることができるという約束を与えられながら、神に敵対する勢力に踏みにじられもするという両面がありました。ここでもそうです。

7節「そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上ってくる獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す」(この「獣」は13章に改めて出てきます)。

8節「彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである」。

ローマで、ペルガモやスミルナで、時代が下ればヨーロッパ各地で、近場では中国でも韓国でも日本でも、殉教者たちは、エルサレムのゴルゴダで十字架につけられたキリストと重ねられる。これは注目すべく、心すべきことです。

9節「『もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない』」3年半のうちのさらに一時、三日半、キリストが十字架にさらされたように、二人の証人もさらされるのです。悲劇としか見られなければ悲劇、光栄ととらえられれば光栄です。

10節「また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである」

もちろんふたりの預言者と呼ばれる教会は、悪いことをして苦しめたのではありません。罪の宣告、神の裁きと悔い改めを告げて苦しめたということでしょう。

11~13節「しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らに入り、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のために七千人が死に、生き残った人々は恐怖に満たされ、天の神をあがめた」

どのような迫害、苦しみの中でも教会はへこたれません。パウロは「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Ⅱコリ12:10)と言いました。主ご自身が、主に倣って自らの十字架を負うよろよろの教会に、計り知れない力をみなぎらせ、神を見させて下さるのです。

100年以上前の話ですが、プリンストンで学んだ森勝四郎という人が、1905年から高知で伝道をして群れが生まれ、やがて耶蘇基督之新約教会となります。妥協をゆるさない偶像礼拝拒否のゆえ1941年9月12日43名が検挙され、弾圧を受けました。その森勝四郎の言葉にこういうのがあります。「吾々が一番善い事をして、しかも一番悪い結果になり、其時に平安である事が、十字架の喜である」というのがあります。正しく生きて苦しみを受ける、苦しみの中で喜び、主の力に生かされる、という例は枚挙にいとまがありません。

 

  • 第七のラッパ(14~19節)

 

14節「第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。」

8章13節、9章12節に続く、区切りのことばです。そして、いよいよ今日のクライマックスです。

15節「第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。『この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。』

第七の封印が解かれると、「静かな祈りの時」がありました。第七のラッパが吹き鳴らされるとキリストが王座に着かれます。この後、第七の鉢がまけられると裁きが成就し救いが完成します。

16~17節「それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。『万物の支配者、今いまし、昔います神である主(1章4節、8節、4章8節に「今いまし、昔いまし、後に来られる方」という尊称がありますが、ここでは「後に来られる方」ということばはありません。ここでは、もうすでに来られたからです)。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。』」

続く18節は、この間のことを説明して謳う詩文です。「『諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべたあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。』」

黙示録は、一世紀末の教会に、ローマ皇帝による迫害の中でも恐れることなく福音を証しし、キリストの御足の跡に従うよう励ましました。キリストが迫害されたように、キリストに従う者も苦しみを受ける。しかし、それも永遠の祝福に比べれば、ほんの一時のことです。私たちのゴールは「小羊キリストの王国」の完成です。私たちが遣わされたこの時代は、先が見え難く、迷い多い時代です。黙示録がはっきりとさし示すゴールをしかと見定めましょう。永遠の視点が定まると、先の見えない時代にも迷わずに歩めるのだろうと思います。

19節「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。」

最も高いところに引き上げられる生き方は、もっとも低く仕えることです。卒業する皆さんの、キリストの苦難と栄光に与る生涯に祝福を祈ります。