クリスマスと流山のキリスト教史散歩

流山の平和台恵教会でイブとクリスマスの礼拝の説教をさせていただいた。25日は少し早く着いたので、平和台恵教会の設立者である吉持章牧師から伺っていた、近くの「キリシタン墓地」を訪ねた。墓地に続く路地の入口には「天主公教会墓標」と刻まれた2メートルほどの花崗岩の石柱が立っている。
何ゆえ「キリシタン墓地」であろうかと、いぶかしく思っていたが、「倉科家と墓地の由来」を記した石碑があり、倉科家の系譜を記した後、以下のように結ばれている。「明治七年家禄奉還し土地払下げを受け、改宗により当地を切支丹共同墓地とし末代に残す先駆者たちの信仰の礎となった。この度古文書の調査により判明した。昭和五十七年三月二十日 流山文化財顧問 永井仁三郎」。明治七年以降であれば、天主公教あるいはカトリック公教であって切支丹ではないが、古文書に「切支丹共同墓地」と記してあるとすれば興味深いことである。
自然平石の「本多藩倉科信廣之墓」がそこにあり、信廣の没年は明治37年12月8日である。本多藩は駿河の田中藩であり、徳川家が駿河に移封されたとき安房長尾に移動している。それに先立つ文久三(1863)年に下総の飛び地42か村1万石の陣屋が流山の加村に置かれた。現在流山市博物館があるところである。
本多正訥家臣倉科信廣は、流山の安達盛義伝道士に導かれ、明治14年9月にビィグルース師から洗礼を受けた。当時33歳で一家6人が全員信徒となり、流山における中心的なカトリック信徒となっている(倉科武「東葛地方のカトリック信仰」流山市立博物館友の会『東葛流山研究』25号、平成19年3月20日。瀬下登美子「東葛地方のカトリック布教の歴史」『東葛流山研究』15号、平成8年12月15日)。
明治19年4月に受洗した石井鉄五郎は親分肌で、借金をしても困った人の面倒を見るような人だったという。その長男正蔵はカディヤック師の勧めで和菓子製造を始めたという。現在も流山1丁目に由緒ある店を構える清水屋である。実は、前日旧道を散策した私は、あまりの店構えの良さに魅かれ、そうとは知らずに羊羹を買ったのであった。
墓地の奥のひと際大きい墓石は、流山の特産であった万上味醂製造の堀切紋次郎家のものである(山本鉱太郎「流山の豪商堀切紋次郎家の華麗な系譜」流山市立博物館友の会『におどり』7号、昭和63年7月15日)。
永井仁三郎氏が調査したという古文書には辿りつけなかったが、礼拝前に流山市立博物館の学芸員の方にお願いしておいたところ、帰りには上記の文献をご教示いただいた次第である。
平和台恵教会でのクリスマス礼拝が恵み豊かであったことは言うまでもない。ご子息夫妻からお誘いを受け、基督教独立学園で美術教師をされた日本画家、井崎昭治の展覧会を鑑賞したが、まことにすばらしい心象風景を堪能させていただいた。その後、市川の教会に戻り、ハワイからの宣教チームと共に駅前でキャロリングをして今年のクリスマスを締めくくった。