2月9日 学科専攻別チャペル(教会教職)「神の言葉は甘くて苦い」黙示録10章

2016年2月9日 学科専攻別チャペル(教会教職)

「神の言葉は甘くて苦い」黙示録10章1~11節

招き

エレミヤ15章16節「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」

はじめに

私の妻は料理上手ですが、毎日のことですから、つい慣れてしまって「おいしいね」の一言を忘れがちです。この「おいしいね」を忘れると実に「まずい」ことになります。長年の経験からアドバイスしておくと、「何がどうおいしいのか」という話題は食卓にふさわしいですし、おいしさも増します。さて神の言葉はどうでしょうか?毎朝早天で開かれるみ言葉、毎日チャペルで解き明かされるみ言葉、静思の時、説教の準備でも聖書を読み込みます。確かにみ言葉に生かされていますが、つい慣れてしまって神のことばの「甘さや苦さ」を忘れているということはないでしょうか。そのようなことを考えながら、今日のみことばを味わいましょう。

  • もうひとりの強い御使い(1~4節)

1節「また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。」9章15節の4人の御使いは「時、日、月、年」すなわち時間を管轄していますが、この御使いは、空間、大自然の中に天と地をつなぐように立っているのです。

2~4節「その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き(天と地、地と海をつかさどる御使いの姿です)、獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、『七つの雷が言ったことは封じて、書き記すな』というのを聞いた。」そもそも1章11節で、「あなたの見ることを巻き物にしるして七つの教会に送りなさい」と言われたヨハネにより書き記されたのが黙示録ですが、ここでは書き記すなと言われます。

御使いは雲に包まれて天から降りて来る。頭上には虹があり、顔は太陽のよう、足は火の柱、それでもって雷鳴が轟く、まことにスケールの大きな幻です。このスケールの大きさとは対照的に、大きな御使いの手に「小さな巻き物」がありました。御使いの大きさとのコントラストで「小さな巻き物」なのでしょう。この巻き物は5章7節で、御座にすわる方の右の手から、小羊が受け取った、あの巻き物です。七つの封印で閉じられており、6章から8章の1節にかけて、その七つの封印が解かれたあの巻き物です。この「巻き物」と訳される単語はビブリオン、言うまでもなくバイブルの語源となることばです。ところが10章の2節で「小さな巻き物」と訳されている言葉はブラディオンです。9節も10節も「小さな巻き物」と訳されているところはブラディオンです。そもそもビブリオンとブラディオンは厳密に区別されるわけではありません。10章でも8節の巻き物はビブリオンです。聖書の記述は繊細です。おそらく、大きな御使いの手にある巻き物を映像として見ているところは、小さな巻き物、8節のように視覚ではなく声で伝えられているところは普通にビブリオンが使われているようです。ともかく、今までの巻き物とは別の小さな巻き物が出てきたわけではなく、小羊によって解かれた巻き物は、広げられた状態で大きな強い御使いの手にあり、これがヨハネに渡されるのです。

  • 強い御使いの宣言(5~7節)

5~7節「それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて(誓いのポーズです)、永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。『もはや時が延ばされることはない。第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する』。実は、今も神は忍耐をもってさばきの時を延ばし、恵みの時を与えて下さっているのですが、その終わりの宣言です。

  • 神の言葉は甘くて苦い(8~11節)

ここから新しい展開です。8~10節「それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った(御使いの誓いの言葉が終わると、「書き記すな」と言った天からの声が言います)。『さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。』それで、私は御使いのところに行って、『その小さな巻き物を下さい』と言った。すると、彼は言った。『それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。』そこで私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」。バビロン捕囚の時代、神のことばを語るように遣わされたエゼキエルへのことばを思い起こさせます。

エゼキエル書3章1~3節「その方は私に仰せられた。『人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。』そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。『人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。』そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった」。招詞としたエレミヤ15章16節には「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」とありました。詩篇119篇103節にも「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」とあります。エレミヤ書やエゼキエル書では、預言者が遣わされるという文脈で「巻き物で腹ごしらえをし」、「蜜のように甘い」、「私の楽しみ心の喜び」と語られていることに注意しましょう。神のことばを語る者は、神のことばを楽しみ喜びとして味わい腹ごしらえします。

卒業を予定している皆さんは、その備えができたでしょうか。教室での神学の訓練より、現場の方が楽しいという側面はもちろんあるでしょう。しかし、始まる働きは格闘、しかもその格闘は「血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するもの」(エペソ6:12)でもありますから、気を引き締めて働きに就いてください。そのために、みことばの甘さを味わい、力を蓄えていただきたいと思います。

先ほどエゼキエル書の3章1~3節を読みましたが、続く4節にはこうあります。「その方はまた、私に仰せられた。『人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。』」。11節には「さあ、捕囚となっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、『神である主はこう仰せられる』と彼らに言え」となり、14節には「霊が私を持ち上げ、私を捕らえたので、私は憤って苦々しい思いで出て行った。しかし、主の御手が強く私の上にのしかかっていた」とあります。さらに17~18節では、「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって警告を与えよ。わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義の中で死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」

黙示録に戻りましょう。10節後半、「それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった」。救いの恵みは「甘い」のですが、裁きの宣告、悔い改めない民に語ることは「苦い」のです。神のことばは楽しみ、喜びです。それは「口には蜜のように甘い」のですが、裁きの宣言は「腹に苦い」のです。

11節「そのとき、彼らは私に言った。『あなたはもう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。』」明らかに派遣の文脈です。「神は、むかし父祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、またいろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(へブル1:1~2)。私たちは、この終わりの時代に、御子イエスの福音を預かって遣わされようとしています。最終ランナーのような世代であることを自覚し、手渡された福音のバトンをしっかり握り、走るべき道のりを走り抜いてまいりましょう。