振り返り~コラム

TCUニュースレターをブログ形式で公開しています。皆さんがキリスト者として将来を考える上で、少しでもお役に立てれば幸いです。


 上半期も終わり2019年も残り半年余りとなりました。

 皆さん、どんな半年を過ごしましたか?


 今回のテーマは「振り返り」です。

「振り返り」を辞書で引くと「物事を思い出すこと、過去を顧みること、振り返り良く考

えること」とあります。今回は「振り返り」のお勧めです。

1.振り返ることを通して、神の御心を知り自分自身を知る

 振り返りは、神の御心を知るだけではなく、自分を知る一つの方法です。あなたが歩ん

だ道、経験、すべてが神の御心です。振り返りはパズルのピースを集め、完成させていく

ような作業です。発見した小さなピースは、その1ピースだけでは何かよく分かりませ

ん。いくつも集めることで、その全体像、一貫性やテーマがあることに気付くでしょう。

 そして、振り返った期間のテーマや一貫性を言葉で表してみてはいかがでしょうか?一

文でまとめることによって、なんとなく知るのではなく、明確に理解することの助けにな

ると思います。

例「今シーズンは〇〇の出来事を通して、休息を学んだ期間」

 「ひたすら神の御心を求めた期間」

 「愛されていることを感じた期間」

ニュースレター7月号

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103篇1節~2節

2.振り返ることを通して神に感謝を捧げる

 振り返りを通して、神の恵みを思い巡らす中で、自分がこの恩恵に値しないことに気づ

かされます。その結果、相応しくないものに与えられた恵みのゆえに神をほめたたえ、感

謝をささげるのです。

 振り返りの作業は、良い経験だけを振り返るのではありません。悲しみ、苦しみ、不

安、怒りなどの経験も思い巡らします。その経験や感情を神の御前にそのまま持っていく

ことが大切です。「神様、私はこの時、この理由で悲しかったです」あるいは「こういう

理由で怒りでいっぱいでした」。そして神にこう聞いてください。「これらのことを通し

て私に何を語られ、何を求めておられますか?」と。マイナスのように思える出来事を通

して、それでもなお神が変わらず愛し、生かしてくださっていることを思うとき詩篇の著

者のようにその恵みゆえ、神をほめたたえるのです。

3.次のシーズンを神に聞きながら過ごす

 私たちは過去の出来事を振り返る時、神のみこころを知ります。振り返って、みこころ

を知って終わりにせず、次のシーズンを神に聞くことをおすすめします。

ニュースレター7月号 ②

「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っているー主のことばー。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29章11節

 私たちは、人生に起こることを予測できたとしても、実際に何が起こるかわかりませ

ん。しかし、神は私たちの歩む道をすべてご存じです。ですから、このお方に聞き従い、

日々導きを仰ぎます。どんなことがあったとしても振り返れば、そこに主のご計画とみこ

こがあったことに気づくでしょう。さらに、神ご自身が、私たち一人一人に持っておられ

る計画はわざわいではなく平安を与え、将来と希望を与えると約束してくださっていま

す。ですので、次のシーズンもこのお方に聞きながら歩みましょう。


 皆さん、どうでしたか?

 是非、振り返りの時間を持ってみてください。主のしてくださったことを数え、下半期

も神に感謝しつつ委ねてまいりましょう。皆さんの上に主の祝福と導きがあることをお祈

りしています。

JCFN・TCUスタッフ 古屋詩織

 

 

 

セルフケア~コラム

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この春、TCUの大学院を卒業し、JCFN(帰国者ミニストリーの宣教団体)とTCUでスタッフをしている古屋詩織です。読んでくださる皆様の信仰生活の励ましに用いて頂けましたら幸いです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

梅雨入りしましたね。雨音を聞きながら、青々としたTCUの中庭を横目にコラムを執筆しております。皆さんいかがお過ごしでしょうか?

雨の日が続くと…..「通学・通勤は大変」「外出もできない」「洗濯物がたまる」「気分が下がる」….それに加え学生さんは期末テストに向けて頑張っているところでしょうか。TCU生も学期末試験を控え勉強中。また、同時に夏期伝道、インターンの準備、福祉学専攻は介護実習、国際キリスト教学専攻2年生は秋学期のオーストラリア留学の準備と忙しい時期を迎えています。

憂鬱な気分に加え忙しい日々だからこそ、雨音と共に御言葉を味わう時間をいつもよりじっくり、ゆっくり持ちたいものです。

ー今回はTCUにおけるセルフケアについてー

「クリスチャンだからストレスとは無縁」という人は一人もいません。むしろ神様が創造した自分自身をよく知り管理することが大切です。今回はセルフケアの方法についてご紹介します。

 

1.適度な運動

TCUには様々なスポーツサークルがあります。バスケットボール、バレーボール、フットサル、ソフトボールなど仲間と楽しく身体を動かしながらセルフケアができます。ここで重要なのは「楽しむ」ことです。ノルマをつけてしまうとかえってストレスになります。

☟東京基督教大学ブログ「バレーボールサークル」画像をクリック

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2.趣味を持つ

自分の好きなことをする時間を確保する。趣味に没頭することにより、仕事や学業への意欲も高まります。また、趣味を通して神様から教えられることもあるでしょう。

私の趣味の一つは植物を育てること。一口に植物といってもその育て方は様々。季節や植物によって水や肥料をあげる頻度も異なります。植物を育てることを通して、神様が一人一人を大切に思い、その人に適した成長の方法を持っておられることを知り、神様の愛の深さを実感しました。Ⅰコリント3:6 パウロが植えアポロが水を注いだ。しかし成長させて下さるのは神様であるという御言葉を思いめぐらしながら土いじりをしています。趣味を通して語られる神様をみなさんも是非体験してみてください。

また、趣味が欲しいという方は以下のサークルをお勧めします!茶道サークル、ウクレレサークル、人形劇、わわわクラブ(子供伝道サークル)など。趣味を通して広がる輪、新たに賜物を発見する機会にもなりますよ。

セルフケア

3.親しい交流

人と交わることを通して、悩みや不安の解決策をみつけることが出来るかもしれません。気の許せる友だちとの時間は大切です。たわいもないことで笑い。クリスチャンだからこそ、互いに祈り合い、み言葉をもって励ましあうことも、共に主を賛美することもできます。
寮生活は常に自分以外の誰かがいる環境です。交わりを持とうと思えば、いつでも持つことができます。1人の時間も仲間との時間もバランスよく取りましょう。

 

☟東京基督教大学ブログ「女子寮、春のopen-room-イベント!」画像をクリック

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4.快適な睡眠時間を確保する

睡眠は疲れたから取るのではなく、次に働くために取るものです。人は休むことで働くことが出来るのです。(創世記2:2ー3)神様は6日目に人を造られ、7日目は働かずに、休みました。

快適な睡眠を得るためには寝る前の時間が大切です。寝る前のルーティンがあると身体が落ち着き睡眠へと向かうようです。例えば、お風呂(湯舟にしっかりと浸かる)→ストレッチ→アロマを焚く→本を読むなど。間接照明で過ごすことも快適な睡眠へと導きます。快適な睡眠が取れれば、すっきりとした目覚めを得ることができ、1日を気持ちよく始めることができます。

 

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※注意点
セルフケアをする際に心がけることは「適度」「やりすぎない」です。ストレス解消、リラクゼーションを目的とするため頑張りすぎたり、重荷になってしまうと本末転倒です。セルフケアをしながら忙しい日々も、主と共に歩んでまいりましょう。

 

JCFN・TCUスタッフ 古屋詩織

「いのちの主」~コラム

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2018年度も残りわずかとなりました。知らず知らずのうちに溜まった疲れが出てくる時期でもありますが、皆さんどのような思いで過ごしていますか?今回は「いのちの主」とタイトルを付けました。疲れた時も、やる気が出ない時も、もうひと頑張りしないといけない時も、私たちを生かしてくださるのは主。御言葉から、麗しいいのちを受け取りましょう。

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見よ、その平地には非常に多くの骨があった。しかも見よ、それらはすっかり干からびていた。(エゼキエル37:2b)

印象的な描写です。これは預言者エゼキエルが主に導かれて目にした幻ですが、現実離れしたSFやファンタジーとは違います。当時イスラエルの民は、バビロン捕囚の時期を過ごしていました。自分たちの国は征服されて、人々はバビロニア帝国への移住を強いられます。肉体的な苦しみは大きなものではなかったかもしれませんが、都エルサレムを失うことは礼拝の場を失うことでもあり、真の神との結びつきにおける喪失感は彼らにとって大きな試練だったと思われます。彼らはこのバビロン捕囚を通して飢え渇きを経験しました。まさに、主がエゼキエルに見せた幻、干からびた骨のようです。
私たちも、干からびたように自らを失ってしまうことがないでしょうか。必死に努力したことが実を結ばなかったり、変わっていく環境に心が追い付かなかったり、大きな支えを失ったり、特に原因はないけれどどこか満たされないものを抱えていたり。神様を信じていても、聖書を読んでいても、祈っていても、そのような飢え渇きを経験することがあります。神様はそのような人々に深い憐れみを示し、エゼキエルに言葉を託しました。

『干からびた骨よ、主の言葉を聞け。神である主はこれらの骨にこう言う。見よ。わたしがおまえたちに息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしはおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚で覆い、おまえたちのうちに息を与え、おまえたちは生き返る。そのときおまえたちは、わたしが主であることを知る。』(エゼキエル37:4-6)

主は「わたしがおまえたちに息を吹き入れるので」と言われます。もちろん、肉体も神様が形作ってくださった尊いものですが、それだけでは生きることができません。創世記2:7に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。」とある通り、神様の息が吹き込まれて初めて生きるようになるのです。また「息」という言葉は「霊」とも訳されます。創造のはじめから、バビロン捕囚の時も私たちが生きる現代においても、人のうちには神の霊の住まいがあり、そこに神様が住まわってくださることなしに麗しいいのちは得られないのです。
クリスチャンなのに、聖書を読んでいるのに、祈っているのに、何が足りないんだろうと思うかもしれません。しかし、真面目な信仰生活を送ること=神様の霊が自らのうちに住まわっているとは限りません。神様が吹き込んだご自身の霊を締め出して自分が人生の主になろうとするのではなく、主が主であることを知りましょう。ちりである私たちに息を吹き込まれる主を自分の人生の主人としてお迎えしましょう。そうしていくときに、干からびた骨が麗しいいのちへと変わっていくことを経験します。

わたしの民よ。わたしがあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓から引き上げるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知る。(37:13)
わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(37:27)

皆さんの歩みのうちに、恵みの川が流れますように。

(hi-b.a.スタッフ 国府田祝子)

静まって、聞く。~コラム

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こんばんは。この時期、受験生の皆さんはどのような気持ちで過ごしているでしょうか。今回のテーマは「静まって、聞く。」です。私は忙しい時、焦っている時、大きなプレッシャーを感じる時や、不安を抱える時、よく騒ぎます。人に助けを求めたり、もがくように頑張ってみたり、文句が出てきたり、祈りさえも騒がしくなる時があります。皆さんはどうでしょうか。神様の御業を見るためには静まって聞くことが鉄則です。このことを改めて心にとめましょう。
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モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」(出エジプト記14:13-14)

海を分ける奇跡の直前、モーセが言った言葉です。当時の状況を思い浮かべてみると、前は海、後ろはエジプト軍。逃げ場がない上に、敵はどんどん近づいてくるという絶体絶命の緊迫した場面です。イスラエルの民がエジプトに残ればよかったと騒ぎ立てるのも当然だと思います。しかし、モーセがとった姿勢は主の前に「黙る」ことでした。「静かにする」とも訳されます。「主がこの場所で戦われる。私たちはただ静まって、その御業を見ようではないか」と民に呼びかけたのです。神様の御業を見るためには、まず自分を一度横に置いて、神様のみ前に静まることが必要です。
また、その次には聞くことです。モーセは神様の言葉を聞きました。「あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。」(出エジプト14:16)騒いでいるときには聞こえない、神様の小さな声を聞くことができました。それによって救いの道を知ったモーセは、言われた通りに行動して奇跡を見たのです。
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クリスチャンである私たちは、困ったときに祈り求めるでしょう。私たちには、自由に父なる神様に祈り求めることが許されています。もちろん神様も聞いてくださいます。しかし、祈りとは神様への願い事を述べる場ではありません。交わりの場です。私たちは多くの言葉を並べますが、どれだけ神様の前に静まり、御言葉に耳を傾けているでしょうか。
この世界には多くの情報があります。日々やるべき事もあります。人からのプレッシャーがあり、その分の思い煩いもあります。大きな騒がしい声があふれた世界です。それらに揉まれて、時に疲れたり、何が良いものか分からなくなったり、焦りと不安に押しつぶされそうになったりします。でも、あなたを生かすものは良い成績ではありません。良い進学先、良い就職先、良い収入、良い評価でもありません。本当にあなたを生かすものは、真理です。真理はあなたを自由にします(ヨハネ8:32)。この真理を知るためには、一度自分のことを横に置いて、主の前に静まって御声に耳を傾けることが必要です。少年だったサムエルが素直な心で主の声に答えたように、私たちも答えたいと思います。「お話しください。しもべは聞いております。」(Ⅰサムエル3:10)

hi-b.a.スタッフ 国府田祝子

“Merry Christmas!!”~コラム

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こんばんは!アドベントのこの時期、どのようにお過ごしですか?お祝いムードの中、イエス・キリストの降誕の出来事を思いめぐらして、その素晴らしさを深く知る者とされていきたいものです。今回のテーマもそのような事から選びました。イエスの母、マリアの信仰の姿を見ていきましょう。

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「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)

これは、マリアの言葉です。ガリラヤのナザレという町に暮らしていた少女。高い地位も、権力も、力もなく、ごく一般的な生活を送っていたであろう彼女は、突然、聖霊によって身ごもったという知らせを受けます。信じられないことです。しかし、マリアは主の御心を受け止め、先ほどの信頼の言葉を述べました。

マリアにとって、この出来事はこんなにも素直に受け入れられることだったのでしょうか。そんなことはありません。彼女もまた、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。」(34節)と、神の御業の不思議を訴えました。また少し冷静に考えると、彼女は非常に重たい重荷を負わされたように思います。未婚の自分が身ごもったことが知られたら、姦淫の罪で訴えられ、石打の刑で処刑されるのです。必死に無罪を主張しても、彼女の言葉に耳を傾ける人はいないでしょう。世間体や律法を考えれば、焦り、困惑、不安、恐怖心…様々な感情が彼女を襲っても決しておかしくありません。

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私たちも、どうしようもない現実を突きつけられる時があります。病気、事故、災害、大切な人の死、家族の崩壊、理想とは違う自分自身の姿…。それらは自分の力ではどうにもできません。言ってみれば理不尽ですし、どうして自分が?と思うことです。誰のせいでもなく、理由も目的も分からない現実が突然押し寄せます。皆さんはそのような状況にあって何を信じますか。またマリアは、何を信じたのでしょうか。

彼女は、全能なる神、そして愛なる神への信仰から揺らぐことはありませんでした。神にとって不可能なことは何もありません(37節)、聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます(35節)。御使いの言葉に力強く、また平安の内に立ったのです。
神様が導いてくださった信仰によって、彼女は受け止めきれない現実を生き抜くことができました。その先にあるのは、主とともにある平安です。それは今、聖霊によって生まれた一人の男の子によって私たちにも開かれています。マリアの信仰を導き、全世界の大きなご計画をも導く神様は、私たちにも目をとめてくださるのです。聖霊に導かれて、一切を神様にお委ねしましょう。その先で、神の見えざる御手が確かに働くところを見たいものです。今日、皆さんが主の栄光を見ることができますように!

(hi-b.a.スタッフ 国府田祝子)

TCUだより「弱いときにこそ、強い」

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 こんばんは!高校生はテストの時期ですね。もうすぐ受験という人もいるでしょうか。思い出してみると…私のテスト前は、自分の自己管理能力のなさに嫌気がさしてイライラする日々だったように思います(苦笑)でも、そんな自分も嫌で仕方がなく、私なりに「自分は弱いなあ」と感じていました。ちょうど、このイラストのような感じです。笑
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「弱さ」は、誰も避けることのできない人間の特徴とも言えるかもしれませんね。一人一人、欠けがあって弱さを持っています。「キリスト教は弱い人の宗教だ!」ということを聞いたことがありますが、誰一人弱さを持たない人などいないのです。尊敬する信仰の大先輩、パウロでさえそうでした。彼が教会宛に書いた手紙を読んでいくと、自分自身の愚かさ、弱さについての言葉が度々語られているのです。しかし、そんな彼はある確信によって力強く立たされていました。

「私が弱いときにこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10b)

印象的な逆説です。彼がこのようなことを言えたのはどうしてでしょうか。
パウロは、体に病気を持っていたと考えられています。Ⅱコリント12:7にある「肉体のとげ」がそれです。彼はこの「とげ」によって、悩み、苦しみ、これが取り除かれるようにと主に強く求めました。自分が苦しいだけでなく、主の働きの妨げになると思ったのです。しかし、そんなパウロに与えられた神様の言葉はこうでした。

「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9a)

「あなたが要らないと思っているそのとげは、わたしの恵みの一つだ。その弱さのうちにこそ、わたしの力を完全に現わそう。」と主は言われたのです。パウロは、このとげにより主の前にへりくだりました。そして、先ほどの確信に至ります。もし心も体も調子が良ければ、すべての業を自分の力によるものだと高慢になっていたかもしれません。彼は、とげがあることによって弱さのうちに完全に働かれる神様の御業を見、またそれを100%神の恵みとして受け取ることができたのです。

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私たちは、すぐに完璧を目指します。聖書が教えるように、信仰深く、敬虔に。そして、そのような生き方をできない自分の弱さに気づき、落胆していきます。人と比べてだめな人間だと思うこともあるかもしれません。しかし、「自分にはできない」という弱さは神様の力に頼るチャンスです。こんな自分が者が神の子どもとされている!という恵を味わう時です。弱さを覚える者にこそ、主の恵みを深く味わう幸いがあるのです。弱さを痛感する時、主の力に期待しましょう。その先で力強い神の御業を見ることができます。

(hi-b.a.スタッフ 国府田祝子)

 


TCUだより「父なる神様への祈り」

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今回のテーマは「祈り」です。皆さんは普段、どんな祈りをしているでしょうか。どういった時に祈っているでしょうか。皆さんにとって、祈りはどのようなものでしょうか。

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イエス様は、弟子たちに祈りを教えられました。
ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』(マタイ6:9-13)

現代の教会でも祈られる、主の祈りです。これは、神様の愛への絶対的な信頼に基づく祈りだと言えます。「神様は愛なる方であり、神様がなさることはすべて良い」と完全に信頼していなければ、「みこころが行われますように」とは祈ることができないのです。この祈りを教えられていることは大きな祝福です。そのことが、直前の6章7~8節でよくわかります。

また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。(マタイ6:7-8a)

自分自身の祈りを考えさせられる御言葉です。「同じことばをただ繰り返す祈り」とは、願いを叶えるために祈る祈りではないでしょうか。本当の神様を知らない異邦人は、祈りが聞かれるようにと一生懸命ことばを繰り返して祈ります。彼らにとって祈りの目的は神様からの恵みや、良い結果を得ることなのです。そのように願うことがいけないのではありません。しかし、神様は私たちの願い事を叶えるために祈りを聞いておられる打出の小槌のような方ではありません。イエス様はこのように続けています。

あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。(マタイ6:8b)

イエス様は、神様はあなたがたの父だと教えました。異邦人が求める打出の小槌とは決定的に違うところがあります。父には、子を愛する愛があるという点です。その愛のゆえに、神様は私たちの必要を知り、よい道に導いてくださいます。この神様と親しく交わる、そんな祈りは願いが叶う以上に素晴らしい祝福ではないでしょうか!

私たちは何を求めて祈っているでしょうか。思い描いている幸せや、願い通りの結果でしょうか。それらを求めることは悪いことではありません。しかし、父なる神様を知っている私たちは打出の小槌にではなく、父なる神様との交わりの内に求めたいものです。父なる神様は、あなたの声に喜んで耳を傾けてくださいます。そしてその交わりの中で、私たちは主への完全な信頼を置き、みこころを願う者へと変えられていくのです。

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その人は、流れのほとりに植えられた木。
時が来ると実を結び
その葉は枯れず
そのなすことはすべて栄える。(詩篇1:3)

今日、主の親しい交わりが皆さんの生活の内にありますように!
(hi-b.a.スタッフ 国府田祝子)