大学院設置認可

本日、2011年10月25日、東京基督教大学大学院の設置が認可されました。すでに昨年度から東京基督神学校は募集を停止し、教会教職を志願する大卒者の東京基督教大学3年次編入による教会教職課程が始まっています。2012年3月には最後の卒業生を送り出して東京基督神学校は閉校し、東京基督教大学の大学院がスタートすることになりました。
この大学院は牧師をはじめとする教会教職者の養成を主眼としています。器は神学校から大学院に変わりますが教育のめざすところは同じです。8人の専任教員は、聖書学部門が木内伸嘉、R・ショート、伊藤明生、小林高徳、神学・教会部門がS・フランクリン、稲垣久和、岡村直樹、山口陽一です。設置認可を受け、教会教職課程の責任者である私が暫定研究科委員長として、さらなる準備を進めます。
3年間の神学校課程は、4年間の教会教職課程に拡充されます。学部では聖書語学をはじめ神学各部門をみっちりと、大学院では福音主義の聖書学と神学を実践的に学びます。グローバル化し複雑化した現代の教会と社会に仕えるため、学部のキリスト教リベラル・アーツ、異文化理解、キリスト教福祉学を生かした教会教職の育成をめざします。定員は18名、大半は内部進学しますが、大学院でも学生募集をいたします。
神学校はあと半年で閉校しますが、62年間の実績はそのまま4年間の教会教職課程・大学院に受け継がれます。8人の専任教員の内5人は東京基督神学校の卒業生です。卒業生の皆様には、東京基督神学校を統合した東京基督教大学を母校として引き続きご支援いただきたくお願い申し上げます。
ここまで支えて下さった皆さまに心から感謝いたします。これからもご支援下さいますようお願い申し上げます。

春を恨んだりはしない

書店には東日本大震災と原発関係の本があふれています。その中で最も興味をそそられたのが池澤夏樹『春を恨んだりはしない』です。ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩の一節、「春を恨んだりはしない 例年のように自分の義務を果たしたからといって 春を責めたりはしない わかっている わたしがいくら悲しくても そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと」(「眺めとの別れ」『終わりと始まり』)からその表題はとられています。
池澤氏の本は、だいぶ前に『静かな大地』を読み、旧約学者秋吉輝雄氏との対談『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を斜め読みしたくらいです。秋吉先生には、立教の旧約学演習で一対一の講義を受けたことがありました。旧約聖書と星座についての考えたこともなかったような講義でした。それはさておき、池澤氏は、『春を恨んだりはしない』という小さな本を書くのにいつになく苦労したと言います。「書いているうちに間違った道に入り込んで戻り、頭を抱える。その合間に何度となく被災地へ行って走周り、人に会って何かを知ろうとする。だが大事なものがどうしても掴めない。焦っている自分をなだめる」 この戸惑いが、山のような震災本の中で本書を際立たせているように思います。
旧約聖書の思想を思い巡らし、大船渡のカトリックの医師で聖書を気仙語に翻訳した山浦玄嗣氏との出会いのことなども記されています。池澤氏は、山浦氏の講演を聞いて言う。「(ぼくにとっては)驚くべきことを言った―祈るとは自分勝手な願いを神に向って訴えることではない。祈るとは、自分は何をすべきなのか、それを伝える神の声を聴こうと耳を澄ますことである。教えを乞うことである。自分は斧なのか、槌なのか、あるいは水準器なのか、それを教えてほしい。それがわかれば、神意のままに身を粉にして働くことができる」
末尾のことばは、「こういうことを考えながら、前へ出ようと思う。」です。

クリスチャンビジネスの信仰とスキル

大盛況のうちにシオン祭が終了しました。東日本大震災を覚えて例年にまさるチャリティーとしたことには、震災以来ボランティア活動を続けて来た学生たちの気持ちがこもっいました。すべてのプログラムで若い力が漲り溢れていました。ご来校下さった皆様、ありがとうございました。
さて、フェスティバルの後、10月29日に御茶ノ水クリスチャンセンターにおいてFCCセミナー「クリスチャンビジネスの信仰とスキル」を行います。ビジネスの世界で活躍・奮闘しておられるすべてのクリスチャンを対象にしたセミナーです。また、そのようなは働きをしておられる卒業生のホームカミングともなればと願っております。
講師は、元カネボウ薬品社長、本学園の理事の三谷康人氏です。若いクリスチャンに信仰を以てチャレンジしてほしい。熱心だけでなくビジネスの理念とスキル(特にドラッガーの考え方を中心に)をしっかり身につけて活躍してほしい。そんな熱い思いをもって、話題となった名講演「ビジネスと人生と聖書ー勝利へのマスターキー」を再構成で講じていただきます。同志の出会いにも期待しています。是非、ご参加ください。申し込みは国際宣教センター(FCC)の窓口からお願いいたします。

9月7日朝の祈り

朽ちない冠を受けるため
第一コリント9章24~27節

パウロが福音宣教において期待したのは、23節後半にあるように「福音の恵みをともに受ける者となる」ことでした。
ピリピ1:5で「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています」と同様、ここも福音宣教に参加することと読むことができます。口語訳や新共同訳は「共に福音にあずかるため」と訳し、このような理解に余地を残しています。
しかし、27節に「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者となるようなことがないためです」とあることからすると、自分自身も福音の恵みから漏れずに、ともに受ける者となるため、と理解するのが良いようです。新改訳は、こちらの読み方になるように「恵み」を補い「福音の恵みを」と訳しています。
「信仰義認」「恩寵による救い」「神の選び」という信仰は、確信と平安を生み出します。しかし、恵みの上にあぐらをかいて、怠惰にしていて良いというものではありません。ここでパウロが語ることは、神の恵みと矛盾するものではなく、神の恵みゆえに、なのです。
24節「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」
コリントでは地峡のイストモスで三年に一度の競技会が開かれていました。オリンピアの賞は月桂冠でしたが、イストモスの賞は松の冠、松葉冠でした。賞は優勝者だけに与えられます。古代のアスリートたちは、みな、ただ一つの賞をめざして競技したのです。信仰者、伝道者の生き方とは、そういうものなのです。
25節「また闘技する者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」
オリンピア競技に出場する場合、選手は10ヶ月に及ぶ徹底した訓練を受けました。朽ちる冠のためにすらそうなのだから、ましていわんや朽ちない冠のためには、どれほどの自制があっても不思議ではないのです。
26節には日本に訳されていない「フートス(このように)」という言葉が二回出てきます。それを加えて訳すとこうです。
「ですから、私はこのように決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。このように空を打つような拳闘もしてはいません。」
パウロは自分の生き方を見本として示しながら言っているのです。
27節「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
ルターの『キリスト者の自由』を読んで意外だったのは、信仰による義を語り、良い行いは恵みを得るための功績ではないと口をすっぱくして言った後、自分を打ちたたいて善行をすると言っていることでした。
「肉体は断食、徹宵、労働、その他あらゆる過度の訓練をもって強制され鍛錬されることによって、内なる人と信仰とに服従しまたこれと等しい様相に化し、かくて強制されない場合にありがちな妨げや反抗を試みることのないようにならなければならない」(第20)
柏木義円は、毎日伝道に出かけました。ある雪の日のことを息子の寛吾は振り返る。
「『お父っつあん、こんな大雪に伝道に行くにはいやだね』と言ったものである。すると、私はその場で坐らされ自らも端座しまことにけわしい顔になって『おれは伝道に行くのがいやだと思ったことはないぞ』とたしなめられた」
パウロもルターも、わが国の信仰の先達も、神の恵みの信仰を、このようい「自分のからだを打ちたたいて」生きて来たのです。伝道者はこのようでありたいものです。今朝は、「ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなこと」がないように祈りましょう。

9月6日朝の祈り

早天祈祷会「何とかして、幾人かでも救うため」(第一コリント9:19~23)

19節「私は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」
私がクリスチャンになりたいと思った動機は「自由になりたい」ということでした。ですから、パウロがこんなにも自信をもって「私はすべてについて自由である」と宣言するのを聴くと、実に気持ちが良いですね。ところが、せっかく気持ち良くなったところで、すべてに対して自由である彼は、「すべてのことにおいて奴隷のようになる」と言うのです。それは「より多くの人を獲得するため」だというのですから、ただごとではありません。
20節a「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。」
彼はもともとユダヤ人なのですから、ユダヤ人のようにならなくてもいいのですが、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになる」というくらいユダヤを超越してしまっているのですね。私たちも日本人であるということをこのくらい相対化できて、その上で日本人に仕えるということでありたいものです。
20節b「律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。」
「律法の下にある人」は「ユダヤ人」の言い換えです。「律法の下にある(ヒュポ ノモス)」という言い方が、如何にも律法に押さえつけられているという感じです。
21節a「律法を持たない人に対しては」
「律法を持たない」は「アノモス」ですから無律法、目標もなければ物指しもないような生き方です。無法という言葉が誤解を与えないようにパウロは、言い足します。
21節b「私は律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが」
「神の律法の外にある」も「アノモス」ですが、「キリストの律法を守る者」は「ヒュポ ノモス クリストー」ではなく「エン ノモス クリストー」です。ここは小さな前置詞の大きな違いに注目です。「ヒュポ ノモス」ではなく「エン ノモス」。クリスチャンは律法に押しつぶされるのではなく、律法の内にいるのです。
こんな注意書きを必要とするほど「律法を持たない」ことは危険なことなのですが、そんな「律法を持たない者」のようにさえなると言うのです。
21節c「律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。」
22節a「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。」
フランシスコ会訳が「弱い者」を「良心の病んでいる人」と訳しているのを見て、どうしてそういう訳ができるのかと驚きました。フランシスコ会訳聖書は、その説明をしていませんが、おそらく8章の7節以下を踏まえているのでしょう。8章7節「弱い良心が汚れる」、9節「弱い人たちのつまずきとならないように」、10節「その人の良心は弱いのに」、12節「彼らの弱い良心を踏みにじる」
確かに文脈は「弱い良心の兄弟」を躓かせない、獲得するということを言っていますから、訳としては「弱い者」が良いでしょうが、理解としては「良心の弱い人」が良いと思います。
これは21節の「律法をもたない人(アノモス)」でも、20節の「律法の下にある人(ヒュポ ノモス)」でもない別のカテゴリーです。パウロは、抜かりなくすべてのカテゴリーをこうして押さえると、次のようにまとめました。
22節b「すべての人に、すべてのものとなりました。それは何とかして、幾人かでも救うためです。」
ここまでパウロは「獲得するため」と5回も繰り返して来ましたが、ここでは「救うため」と言い換えて、「獲得する」とは、つまり「救うこと」であると明らかにしています。
23節「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」
この夏の夏期伝道のテーマ聖句です。私は6月29日この箇所から派遣礼拝の説教をいたしました。皆さん良く覚えておられると思いますから、ここは省略しますが、一つのことを皆さんに問いかけて終わりたいと思います。
あなたは「何とかして、幾人かでも救うために」「すべての人にすべてのものとなりました」と言えるような生き方をしていますか。あなたは「福音の恵みをともに受ける者」となれるでしょうか。
今朝は、一人ずつ祈ります。ひとりで声に出して祈りましょう。「幾人かでも救うことができるように」、「すべての人にすべてのものとなれる」そういう自由を身に着けることができるように、福音の恵みをともに受ける者となれるように。
立ち上がって新聖歌435を歌い、祈りに分かれましょう。

夏期伝道始まる

夏期休暇に入り9日から11日の3日間だけ夏期伝道に行ってきました。今年は茨城県稲敷市の広星キリスト教会です。9日は早稲田の日本キリスト教会館で日本クリスチャン・アカデミー主催のシンポジウム「宗教者は関東大震災をどのように受け止めたか」において柏木義円についての発表があったので、遅れて夜到着しました。まず教会の立地に驚きました。畑が広がる丘の上、真っ暗な夜道を迷いに迷って辿り着いた時の、十字架の明かりが何と嬉しかったことでしょう!
牧師は森田日出夫先生です。1962年にhi-B.A.のキャンプで入信、1972年に韓国でのアジア宣教大会に参加したのを契機に韓国へ留学。イエス教長老会神学大学と神学院を卒業して京畿道の農村教会である金沙教会(統合派)に就任、1983年に牧師按手を受けました。いずれも日本人として初のことです。1985年には廣星教会から宣教師として日本に派遣され、笙子夫人と共に水戸伝道所の開拓に着手、1989年にはつくば東京教会を献堂しました。両教会とも在日大韓基督教会に属し、後者は東京教会の支援で建設されました。その後、松戸での伝道、東京基督教大学共立研修センターでの研修を経て、16年前から現在の働きを始められたそうです。
その開拓初期に、私共の学園の夏期伝道チームを二回迎え、それが開拓伝道に大いに役立ったと言ってくださいました。そのチームのメンバーのことを良く覚えておられ、その話を伺いながら、私たちも身の引きしまる思いでした。
教会員の中に、東京基督今日大学の卒業生で賛美グループLYREのメンバーである宮脇さんご夫妻がおられ、やはり学園チームを歓待してくださいました。今日(11日)は新しいCD「Lyre―共に」の発売日とのこと。チームはこれをバック・ミュージックに今日の活動をいたしました。梅雨も上がり夏本番、チームの皆さんからだに気をつけて、良い働きをなさってください。今年は全国に9チーム64人の学生・教職員が派遣されています。

21世紀牧師の喜怒哀楽

先回お知らせした「21世紀牧師の喜怒哀楽」にTCUの卒業生3人、キリ神の卒業生7人、両校の卒業生3人が来会されました。チャペルを開会礼拝に重ねて聴いたみことばは、?コリント6章1~10節、パウロでも「ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦している」ことでした。神と共に働く恵みを覚え、パウロの苦労を思えば、私たちの労苦など何でもないと思えるところです。
午後は二時間ほどフリートークで一人ひとりの働きの様子を伺いました。今回は、柴田、大和、伊藤、菊池、山口の5人でその話を聞かせていただきました。1~2年、3~4年、5~6年の経験はそれぞれに興味深く、お互いの話から励まされ示唆されることも多かったことでしょう。最後は教師1人が2人の卒業生と祈りを共にし、4時に散会しました。

21世紀牧師の喜怒哀楽

国際宣教センター(FCC)では牧師の継続プログラムの一環として、6月20日(月)に「21世紀牧師の喜怒哀楽」を行います。2001年から2011年までの卒業生(TCU,TCTS,共立研修センター)の卒業生を対象にしたホームカミングです。私たち教員にも牧師としての体験がありますが、21世紀に入ってから牧師となった卒業生のナマの声を聞いてみたい、というのが今回の趣旨です。是非、伝道者、牧師としての「喜怒哀楽」を語りに、お出かけください。それを今後の牧師養成にも生かして行きたいと思います。大学院設置をめざす学園の近況なども報告し、卒業生同志の交流の場ともなることを期待しています。内容はこのホームページの国際宣教センターのところをご覧ください。そこから申し込みもできます。お待ちしています。

『キリスト神学』23号

3月11日に『キリスト神学』No.23を出版いたしました。遅ればせながら紹介いたします。今回は4本の論文と小畑進名誉教授の著作目録です。
論文は、山口陽一「法典長老教会と『ウエストミンスター小教理問答』最初の日本語訳」。法典長老教会(1875年設立)長老安川一旧蔵書調査に基づく報告です。なじみ深い信仰問答はどのように日本語になったか。大和昌平「不干斎ファビアン研究(三)」はファビアンの「空」「仏」の理解に迫ります。朝岡勝「第二スイス信仰告白の教会論―その基本構造―」は、その教会論が第二スイス信仰告白全体に対してどのような意義を有するかを論じています。青木義紀「カルヴァンとスコラ主義」はカルヴァンがスコラ主義の方法論を全否定していないことを丁寧に論じ、カルヴァン研究の課題を提示しています。「小畑進名誉教授 文献目録」は、現在刊行中の『小畑進著作集』のために準備されたものですが、お気づきの点があればご教示ください。

『小畑進著作集』の全巻予約締め切り迫る

小畑進先生の著作目録のことを書いて思い出しました。『小畑進著作集』の全巻予約締め切り(5月31日)が迫りました。ご検討中の方は、是非この機会に最寄の書店でご予約ください。4月10日に、第3巻『ヨハネの黙示録講録3』(12~17章)が出版され、6月には『ヨハネの黙示録講録4』が出て最初の4巻が完結する予定です。3巻には、森和亮氏と小栗宏子氏による「小畑先生の思い出」が付き、4巻には湊晶子氏と関野祐二氏の思い出が挿入される予定です。皆さんが書いてくださる「思い出」が、それぞれ違っていて小畑先生の多様な素顔を浮かび上がらせてくれます。「思い出」は最後に一冊の本になり、予約特価と説教CDに加えて全巻予約者に贈呈されます。