9月7日朝の祈り

朽ちない冠を受けるため
第一コリント9章24~27節

パウロが福音宣教において期待したのは、23節後半にあるように「福音の恵みをともに受ける者となる」ことでした。
ピリピ1:5で「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています」と同様、ここも福音宣教に参加することと読むことができます。口語訳や新共同訳は「共に福音にあずかるため」と訳し、このような理解に余地を残しています。
しかし、27節に「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者となるようなことがないためです」とあることからすると、自分自身も福音の恵みから漏れずに、ともに受ける者となるため、と理解するのが良いようです。新改訳は、こちらの読み方になるように「恵み」を補い「福音の恵みを」と訳しています。
「信仰義認」「恩寵による救い」「神の選び」という信仰は、確信と平安を生み出します。しかし、恵みの上にあぐらをかいて、怠惰にしていて良いというものではありません。ここでパウロが語ることは、神の恵みと矛盾するものではなく、神の恵みゆえに、なのです。
24節「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」
コリントでは地峡のイストモスで三年に一度の競技会が開かれていました。オリンピアの賞は月桂冠でしたが、イストモスの賞は松の冠、松葉冠でした。賞は優勝者だけに与えられます。古代のアスリートたちは、みな、ただ一つの賞をめざして競技したのです。信仰者、伝道者の生き方とは、そういうものなのです。
25節「また闘技する者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。」
オリンピア競技に出場する場合、選手は10ヶ月に及ぶ徹底した訓練を受けました。朽ちる冠のためにすらそうなのだから、ましていわんや朽ちない冠のためには、どれほどの自制があっても不思議ではないのです。
26節には日本に訳されていない「フートス(このように)」という言葉が二回出てきます。それを加えて訳すとこうです。
「ですから、私はこのように決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。このように空を打つような拳闘もしてはいません。」
パウロは自分の生き方を見本として示しながら言っているのです。
27節「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
ルターの『キリスト者の自由』を読んで意外だったのは、信仰による義を語り、良い行いは恵みを得るための功績ではないと口をすっぱくして言った後、自分を打ちたたいて善行をすると言っていることでした。
「肉体は断食、徹宵、労働、その他あらゆる過度の訓練をもって強制され鍛錬されることによって、内なる人と信仰とに服従しまたこれと等しい様相に化し、かくて強制されない場合にありがちな妨げや反抗を試みることのないようにならなければならない」(第20)
柏木義円は、毎日伝道に出かけました。ある雪の日のことを息子の寛吾は振り返る。
「『お父っつあん、こんな大雪に伝道に行くにはいやだね』と言ったものである。すると、私はその場で坐らされ自らも端座しまことにけわしい顔になって『おれは伝道に行くのがいやだと思ったことはないぞ』とたしなめられた」
パウロもルターも、わが国の信仰の先達も、神の恵みの信仰を、このようい「自分のからだを打ちたたいて」生きて来たのです。伝道者はこのようでありたいものです。今朝は、「ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなこと」がないように祈りましょう。