9月6日朝の祈り

早天祈祷会「何とかして、幾人かでも救うため」(第一コリント9:19~23)

19節「私は誰に対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。」
私がクリスチャンになりたいと思った動機は「自由になりたい」ということでした。ですから、パウロがこんなにも自信をもって「私はすべてについて自由である」と宣言するのを聴くと、実に気持ちが良いですね。ところが、せっかく気持ち良くなったところで、すべてに対して自由である彼は、「すべてのことにおいて奴隷のようになる」と言うのです。それは「より多くの人を獲得するため」だというのですから、ただごとではありません。
20節a「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。」
彼はもともとユダヤ人なのですから、ユダヤ人のようにならなくてもいいのですが、「ユダヤ人にはユダヤ人のようになる」というくらいユダヤを超越してしまっているのですね。私たちも日本人であるということをこのくらい相対化できて、その上で日本人に仕えるということでありたいものです。
20節b「律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。」
「律法の下にある人」は「ユダヤ人」の言い換えです。「律法の下にある(ヒュポ ノモス)」という言い方が、如何にも律法に押さえつけられているという感じです。
21節a「律法を持たない人に対しては」
「律法を持たない」は「アノモス」ですから無律法、目標もなければ物指しもないような生き方です。無法という言葉が誤解を与えないようにパウロは、言い足します。
21節b「私は律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが」
「神の律法の外にある」も「アノモス」ですが、「キリストの律法を守る者」は「ヒュポ ノモス クリストー」ではなく「エン ノモス クリストー」です。ここは小さな前置詞の大きな違いに注目です。「ヒュポ ノモス」ではなく「エン ノモス」。クリスチャンは律法に押しつぶされるのではなく、律法の内にいるのです。
こんな注意書きを必要とするほど「律法を持たない」ことは危険なことなのですが、そんな「律法を持たない者」のようにさえなると言うのです。
21節c「律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。」
22節a「弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。」
フランシスコ会訳が「弱い者」を「良心の病んでいる人」と訳しているのを見て、どうしてそういう訳ができるのかと驚きました。フランシスコ会訳聖書は、その説明をしていませんが、おそらく8章の7節以下を踏まえているのでしょう。8章7節「弱い良心が汚れる」、9節「弱い人たちのつまずきとならないように」、10節「その人の良心は弱いのに」、12節「彼らの弱い良心を踏みにじる」
確かに文脈は「弱い良心の兄弟」を躓かせない、獲得するということを言っていますから、訳としては「弱い者」が良いでしょうが、理解としては「良心の弱い人」が良いと思います。
これは21節の「律法をもたない人(アノモス)」でも、20節の「律法の下にある人(ヒュポ ノモス)」でもない別のカテゴリーです。パウロは、抜かりなくすべてのカテゴリーをこうして押さえると、次のようにまとめました。
22節b「すべての人に、すべてのものとなりました。それは何とかして、幾人かでも救うためです。」
ここまでパウロは「獲得するため」と5回も繰り返して来ましたが、ここでは「救うため」と言い換えて、「獲得する」とは、つまり「救うこと」であると明らかにしています。
23節「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」
この夏の夏期伝道のテーマ聖句です。私は6月29日この箇所から派遣礼拝の説教をいたしました。皆さん良く覚えておられると思いますから、ここは省略しますが、一つのことを皆さんに問いかけて終わりたいと思います。
あなたは「何とかして、幾人かでも救うために」「すべての人にすべてのものとなりました」と言えるような生き方をしていますか。あなたは「福音の恵みをともに受ける者」となれるでしょうか。
今朝は、一人ずつ祈ります。ひとりで声に出して祈りましょう。「幾人かでも救うことができるように」、「すべての人にすべてのものとなれる」そういう自由を身に着けることができるように、福音の恵みをともに受ける者となれるように。
立ち上がって新聖歌435を歌い、祈りに分かれましょう。