6月29日チャペル黙示録14章「怒りの葡萄か喜びの収穫か」

怒りの葡萄か喜びの収穫か

黙示録14章1~20節

 

はじめに

 

黙示録には身の毛もよだつような終わりの日の恐ろしいさばきが繰り返し語られています。七つの封印が解かれ、七つのラッパが吹き鳴らされました。あとは七つの鉢がぶちまけられるだけです。ただ、黙示録の中心的なテーマは恵みです。黙示録を締めくくる最後のことばは、「主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。」です。

14章1節「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた」。これは12章18節の「そして、彼は海べの砂の上に立った」と対になっています。

12章17~18節「すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫(神の民)の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。」そして13章では「竜」サタン、竜に力を与えられた「獣」王権、「もう一匹の獣」にせ預言者が登場します。

13章16節から17節には右の手か額に獣の刻印を押された者たちが出て来てこう言われます。「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である」。

獣の数字666は、完全数7に足りない6が三回重ねられた、不完全な人間を象徴する数字と思われます。

こうした光景と好対照に描かれるのが14章です。

14章1節「また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった」

ということで、14章1~5節には、13章の竜や獣の暗躍から一転、「小羊の王国と十四万四千人」の輝かしい様子が描かれます。これが今日の第一の部分です。次に6~13節は「3人の御使いと審判の告知」、さらに14~20節は「二つの収穫」という内容となります。

11章15節で第七のラッパが吹かれ、だいぶ飛んで15章にその災いが記されます。今日の箇所は、その間に挟まれた12~14章の最後の部分です。

 

1、「小羊の王国と十四万四千人」(1~5節)

 

1節の「十四万四千人」は、7章4節に出てきた救われる民の総数です。十四万四千は、実際の数ではなく象徴的な数です。完全数の12×完全数の12×1000。

竜が立つのは「海辺の砂の上」、これに対して小羊は「シオンの山(エルサレム)」の上に立ちます。獣の刻印のある者と、小羊の刻印のある者、666と言う中途半端な不完全数と144,000という完全数、すべてが好対照です。

2節「私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった」。「十四万四千人」の声です。救われたすべての者の大合唱です。

3節「彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。」

7章10節に、「十四万四千人」が「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある」と大声で叫ぶ、とあった通りです。

4~5節「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」

「童貞」(パルテノス)は「純潔、処女」とも訳されることばで、ここでは象徴的にキリストの花嫁である教会の霊的な純潔が言われています。Ⅱコリント11章2節に「私(パウロ)はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです」とあるのと同じです。

「十四万四千人」には3つの特徴がありまして、その一つがこの純潔性、二つ目は「小羊が行く所には、どこにでもついて行く」という、牧者なるキリストに守られる姿、そして「彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである」という神への捧げものという特徴です。

 

2、「3人の御使いと審判の告知」(6~13節)

 

ここには3人の御使いが告げた審判のことばがあり、最後に天からの声が救われる者への祝福を告げます。

最初の御使いは、さばきの時のが来たことを告げます。

6~7節「また私は見た。もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼らは大声で言った。『神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。』」

次の御使いは、神の怒りとさばきを宣告します。

8節「また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。『大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。』」

「大バビロン」はローマ帝国を暗示しており、誰でもそれとわかりました。

第三の御使いも、神の怒りとさばきを宣告します。

9~12節「また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。『もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像を拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。』」

「神の怒りの杯」「神の怒りのぶどう酒」、17節以下にも「ぶどう、ぶどう酒」は神の怒りを表しています。スタインベックの『怒りの葡萄』は、世界恐慌の中で苦しむオクラホマの農民一家を描いてピューリッツァー賞を受賞した作品ですが、この黙示録14章の神の裁きから題名をとっています。

13節「また私は、天からこう言っている声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」』(山上の説教風に訳せば、「幸いなるかな。今から後、主にあって死ぬ者は」です。)御霊も言われる。『しかり、彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである』」

 

3、「二つの収穫」(14~20節)

 

14節「また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。」

収穫の秋が来ました。喜ばしい収穫です。

15~16節「すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。『かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから(地の収穫物は乾いています)。』」そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。」

この刈り入れは、申すまでもなく救われる人々が集められることを表します。これに対してぶどうの刈り入れは滅びに至る人が集められることを意味しています。

17~18節「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。『その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。』」

19~20節「そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れられた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった」

脚注に1スタディオンは185メートルとあります。千六百スタディオンは29万6千メートルです。

 

おわりに

 

以上、黙示録14章は、13章の竜サタンと獣の支配から一転、「小羊の王国」の到来を告げていました。

竜が立つのは「海辺の砂の上」、小羊は「シオンの山(エルサレム)」。獣の刻印のある者と、小羊の刻印のある者。666と言う不完全数と144,000という完全数。大バビロンと新しいエルサレム。裁きを告げ知らせる声と救いを告げ知らせる声、そして喜ばしい穀物の刈り入れと恐ろしいぶどうの刈り取り。そのコントラストは鮮やかでした。

「怒りの葡萄か喜びの収穫か」あなたはどちらを望みますか。聞くまでもありませんね。

ここから見渡せば、ここには「神の怒りのぶどう酒」を刈り取るぶどう畑ではなく、黄金色に色づいてキリストの刈り入れを待つ麦畑が広がっています。ここにいる全員が144,000人の中に加えられるべき方々です。そして額には小羊の刻印を帯びています。パウロは「私は、この身に、イエスの焼き印(スティグマ)を帯びている」(ガラテヤ6章17節)と言いました。

佐倉の臼井城主の子として生まれた原主水は、キリシタンの信仰のゆえに徳川幕府の迫害を受け、額にクルスの焼き印を押されて追放されました。原は、これを誇りとして江戸に潜伏して布教を続け、キリストの苦しみの欠けたるところを満たしました。こんな先輩が身近にもいます。

額に焼き印はともかくも、聖霊の焼き印を心に受けた者として、神の収穫物となり、初穂のささげものらしい生き方をして行きたいものです。