6月28日教会教職チャペル黙示録13章「獣と竜ともう一匹の獣」

獣と竜ともう一匹の獣

黙示録13章1~18節

 

はじめに

黙示録では6章以降、七つの封印が解かれ、次いで七つのラッパが吹き鳴らされる、そして最後に七つの鉢がまけられる。と続きます。11章から13章にかけては第七のラッパが吹き鳴らされた後、七つの鉢がまけられる前の部分です。11章から13章にかけては神の民の苦難の期間が42か月、1260日、「3年半」と言われるのが特徴です。3年半の苦難は長い苦しみです。しかし、やがて「キリストとともに、千年の間王となる」と言われる「千年」と比べれば、ほんのひと時に過ぎません。黙示録が書かれた95年ころ、教会は「3年半」の試練の中にあり、黙示録は彼らを励まします。以来、私たちは、永遠を望みながらこの「3年半」の時を過ごしているということになります。

11章には代々の教会のシンボルとして「二人の証人」が登場しました。12章では、教会が子を産む「女」として登場し、「竜」サタンと戦います。そして、「竜」サタンは投げ落とされます。ところが、そこで「竜」サタンは最後の反撃に出ます。

17節「すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。そして、彼は海べの砂の上に立った。」

 

  • 海からの獣(1~10節)

 

1節「また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。」

これは「獣」です。竜は12章3節。「見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた」。二つを並べて間違い探しをしたいような、良く似た姿です。一方、教会のシンボルである女は、12章1節に「太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた」とありました。

2節「私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に自分の力と位と大きな権威とを与えた。」

ダニエル書7章2~8節(p1461)には、4頭の大きな獣が出てきます。「獅子」「熊」「豹」に似ており、第4の獣は鉄のきばと10本の角を持っています。黙示録ではこれらが一つになった獣です。ダニエル書7章17節以下では、これらは4人の王、バビロニア、メディア、ペルシャ、ギリシャの王を指していると解説されています。

黙示録の獣が、これを受けていることは明らかであり、これが王を表していることもまた明らかです。1世紀の末、黙示録の年代を95年と推定すると、獣はローマ帝国のドミティアヌス皇帝を指していました。いやネロを指す、限定すべきでない、いろいろな見解はありますが、王を指して「獣」と呼ぶ黙示録はまことに政治的な色合いを帯びた啓示と言えるでしょう。

3~4節「その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、そして竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、『だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう』」

これは69年にネロが失脚し自殺した後、4人の皇帝の混迷の時代を経てローマ帝国が権威を回復したことを指していると思われます。あるいは、その後も時に凶暴な国家が繰り返し現れることをも示唆しているでしょう。

「獣」と呼ばれる王は、いつも「竜」と呼ばれるサタンによって立てられているのではなく、「人に益を与えるための神のしもべ」(ローマ13章)なのです。それが時に、竜が権威を与える「獣」ともなるという警告です。

5~7節「この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。そこで彼はその口を開いて、神に対する汚しごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。」

「天に住む者たち」とは、天使たち、あるいは召天した信徒たちだけではなく、神の民全体を含んでいると考えられます。「住む」は「幕屋を張る」ということばです。これは8節の「地に住む者」と対比されます。12節と14節にも出てきます。

8~10節「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名のかきしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。耳のある者は聞きなさい。とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある」

「剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない」は、「剣で殺されるべき者は剣で殺される」とも訳し得るところで、新共同訳、岩波訳、NIVもこれを採っています。エレミヤ43章11節、「彼は来てエジプトの国を打ち、死に定められた者を死に渡し、とりこに定められた者をとりこにし、剣に定められた者を剣に渡す」が基になっていることから考えると、ここは「剣で殺されるべき者は剣で殺される」の方が自然でしょう。

皆さんは、「天に住む者たち」でしょうか。「地に住む者たち」でしょうか。天に属する者たちでしょうか。それとも地に属する者たちでしょうか。

 

  • 地からの獣(11~18節)

 

11節「また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。」

主イエスは予告されました。にせ預言者は「羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」(マタイ7章15節)。まさに、にせ預言者が小羊のなりをしてやってきます。

ここで、2~3章に記されていた小アジアの7つの教会のことを思い出して下さい。「にせの使徒」はエペソ教会を惑わしていました(2:9)。「にせ預言者」イゼベル(2:20)はテアテラの教会を混乱させ、「バラムの教え」(2:14)や「ニコライ派の教え」(2:6、15)はペルガモの教会を偶像礼拝に巻き込んでいました。ペルガモには「サタンの王座」(2:13)と呼ばれる皇帝礼拝の神殿がありました。「にせのユダヤ人」は、スミルナ、フィラデルフィアの教会を苦しめていました(2:9、3:9)。

何と「にせの教え」が多かったことでしょう。黙示録の教会は、「にせの教え」と闘いながら、王の迫害に耐える信仰の戦いを続けていました。

12~13節「この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む(属する)人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行った。」

これが何を指すのかは不明ですが、主イエスはマルコ13章22節でこのように警告しておられます。「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます」

キリストは、しるしとして様々な奇跡を行なわれました。しかし、しるし、奇跡が大切なのではなく、十字架と復活がなくてはならないことだったことを肝に銘じましょう。しるし、しるし、と言って十字架から目を離してはいけません。

14~15節「また、あの獣の前で行うことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」