4月8日チャペル「やめよ。静まれ、力を捨てよ」

やめよ、静まれ、力を捨てよ

詩篇46篇10節

 

「やめよ、静まれ、力を捨てよ」これら3つのことばはみな、10節で「やめよ」と訳された動詞ラファ―の訳語です。新改訳は「やめよ」、文語訳と口語訳は「静まれ」、新共同訳は意訳で「力を捨てよ」です。

今日は、この個所から、昨日に引き続き「チャペルの重要性」について学びたいと思います。昨日は大和先生が「余白をささげる」と題して語ってくださいました。聴きながら、同じようなことだなと思い、よかったと思いました。反対のことは話し難いですからね。

チャペルは神の声を聴き、神をあがめる礼拝の時です。教会での主日礼拝とちがい、証しや報告が中心となることもありますが、それによって神をあがめる時です。人間を中心にする時ではなく、神を中心にする時です。あらゆる営みを中断し、神の前に出て、み言葉に耳を傾けます。「やめる時、静まる時、力を捨てる時」です。

 

それでは詩篇46篇を朗読しましょう。

詩篇46篇1~11節

ご存知のように、これはマルチン・ルターの愛唱詩篇です。ルターはこの詩篇46篇に基づいて、あの有名な賛美歌「神はわがやぐら」を作詞作曲しました。

「神はわがやぐら、わが強き盾、苦しめるときの、近き助けぞ」1529年の作品です。ルターは神学的闘いの中で、この詩篇から繰り返し慰めを受けました。近年では、東日本大震災の後、大津波と共に押し寄せた苦難の中で、信仰により如何に立つか、多くの人々がこの詩から励ましを受けたことを聞いています。

 

この詩は9節から戦争を背景にしていることが推定されます。「主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」。

また4節の「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない」という表現から、エルサレムあるいは天のエルサレムを舞台にしていることも推測できます。

エルサレムを巡る戦争で、詩篇46篇の背景として考えられるのは、紀元前701年のアッシリヤの王セナケリブによるエルサレム包囲です。当時、ユダの王はヒゼキヤ、預言者イザヤの時代でした。そのことはⅡ列王記18~19章に記されています。(旧p669)

大軍に包囲されてエルサレムは絶体絶命、ヒゼキヤ王は自分の衣を裂き、荒布を身にまとって嘆き、こう祈りました。

19:1「私たちの神よ、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」

これに対して、イザヤは主のことばを伝えます。19:20「あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。(中略)34わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために」

その結果驚くべきことが起こりました。35「その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で18万5千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた」

46篇5節後半の「神は夜明け前にこれを助けられる」とか、8節の「来て、主のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた」は、確かに、Ⅱ列王記19章に記されたセナケリブのエルサレム包囲と、主の守りと符合するように思われます。

 

もう一度、言いますが、詩篇46篇は、エルサレム包囲という甚だしい危機的状況、それは外面的にも内面的にも、不安と怖れに飲み込まれるような時を背景に詠まれました。あるいは死をも覚悟し、命がけで一心不乱に戦いに望もうという極度の緊張をはらんだ詩ということです。

2節後半「たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」。そんな危機的状況の中で、1節「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない」のです。

7節と11節では、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」と繰り返されています。

 

以上、その歴史的背景をふくめて詩篇46篇をみました。この詩篇は戦争を背景に、人々が苦しむとき、国々が騒ぎ立つとき、どのように振る舞うべきかを語ります。それは、「やめよ(静まれ、力を捨てよ)。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」です。「やめ、静まり、力を捨てる」時、「神はわれらの避け所、また力。苦しむときそこにある助け」であり、「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコブの神はわれらのとりでである」ことに目が開かれるのです。

 

チャペルの重要性

 

昨日、大和先生は、このチャペルがキャンパス内の一番高いところにあり、一日の真ん中に、学園全体がこの山に登るのだという趣旨のことを話されました。良いイメージだと思いました。旧約聖書ではエルサレムへの巡礼を「都上り」と言いましたが、TCUは毎日、「都上り」する学び舎であるということは、大切なことです。

国際キリスト教学もキリスト教福祉学も含めて、TCUは神学部の下にあります。神学という学問は、小難しい議論をこねくり回すことを目標にしていません。神学がめざすのは、神を愛することと人を愛することです。これは教会と同じです。だだ神学では、これを感情より理性、批判力をもって吟味し、鍛えます。聖書に記された神のことばを、より正確に聴くこと、その力を養います。そして現代におけるふさわしい実践を理論的に導き出します。

そう考えますと、チャペルでの礼拝は、TCUでの神学のめざすところでありその研鑽の成果が表れるところと言えるでしょう。神学の学びの成果は、寮生活にも、教会での実習にも、そして皆さんの生涯を通して表されるでしょうが、チャペルもまたそのような時です。

神をあがめること、みことばに聴く態度、主にある交わり、それぞれの召しと使命の確認。教室での学びが実を結ぶ時としてのチャペルです。卒業予定者による卒業チャペルは、まさにそのような時です。私は、今年も30回くらいあるであろう卒業チャペルを楽しみにしています。皆さんも仲間の証しや説教を楽しみにしてください。

共に一つの賛美をもって主をあがめるということもすばらしいことです。日本の教会で伝統的な賛美歌あり、新しいワーシップソングあり、英語の賛美ありで音楽のスタイルは違います。しかし、それに心を合わせて心から歌う共同体として成長して行きたいと思います。

今日は、この後、学長による「共同体の祈り」があります。心を合わせて共に祈るということも、チャペルの大切な意義です。「主の祈り」に心を合わせて祈れるということは、信仰共同体のバロメーターでもあります。

 

おわりに

 

今日は、詩篇46篇10節「やめよ(静まれ、力を捨てよ)。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」からチャペルの重要性について考えてきました。

午前と午後の講義の間にチャペルでの礼拝があります。日々の「都上り」と思って、この低い山に登りましょう。私たちの学園生活の真ん中にこのチャペルを置きましょう。

3節の水は濁流です。それとは対照的に4節の川は清流です。ある人はこれをヒゼキヤの地下水路のことではないかと言います。全長533メートルに及ぶ地下水路は、エルサレム籠城戦の守りに不可欠なものでした。あるいは、黙示録に約束された新天新地の、水晶のように光るいのちの水の川を重ねてもよいでしょう。

学園生活の中で、濁流が魂を覆い、その水が立ち騒ぎ、あわだつというようなことがあるかもしれません。そんな時、チャペルで、清らかな流れに浸りましょう。

図書館や自室で勉強をしていて調子が出てきて、あるいは課題に追われていてチャペルに行っている暇がないという時こそ、それを中断しましょう。「やめよ、静まれ、力を捨てよ」です。そういう生き方を身につけましょう。私の人生は私のものなのだから、神さま入ってこないで、かつての私たちは考えていました。しかし今は、神さまに「やめよ、静まれ、力を捨てよ」と言っていただくことを受け入れる者、受け入れるだけでなく喜べる者になって行こうではありませんか。

 

祈り

主よ。今朝は、学園生活の中心におかれたチャペルの重要性について学びました。どうか、「やめる、静まる、力を捨てる」ことを知る者とならせてください。そして、主こそ神であることに繰り返し目を開かれ、神をあがめるチャペルの時を、御目にとめ、これを喜び祝福してください。イエスの御名で祈ります。