食事をともにする

しばらく前になるが、「少なくとも週の一日は家族で食事をともにしましょう」というような運動が起こったことがある。「働きバチ」のお父さんへの提言であった。家族の絆が叫ばれたあの頃であるが、現在はどうなのだろう。単身赴任は現在でも健在であるが、多様な就業形態の中、また、家族を第一に考えるようになった世代もあって、家族とともに食事をする時間も増えたのであろうか。すでに独立した息子たちがたまに帰宅して、家族で食事をとる、やはり楽しいひとときである。

東京基督教大学では、他の大学にないことが結構ある。「全寮制」ということもあって、学生たちは朝昼晩と食堂でともに食事をとる。共同生活をしているようなものだ。他の大学の学食と違うのは、定められた時間に一斉に食事をすること、そして、当番制で食べた食器を洗うことだ。これまで家でやったことのない学生も多い。めずらしいのはそれだけでない。特に昼食では、教授たちも学生に混じって食事をともにするのである。もちろん、学長も学部長もである。他の大学生にこのことを話すと、皆に驚かれる。大抵、教授は学生とは食べないし、食べたとしてもいつもではないと言う。それもそうだなと、自分の経験でも思う。でも、私たちの大学では、これが当たり前として教授にも学生にも受け止められている。

「食べる」ということは、立場が違おうと、人間の基本的なことがらである。「教える者と学ぶ者」という立場が変わっても、同じ人間としての共通の必要を共有し満たすのである。その基本的なものごとを「ともにする」ときに、親しみとつながりを深める機会となる。昔から「ともに釜の飯を食べる」というが、そこからもたらされる親和感と連帯感が、人間にはとても大切ではないかと、ともに学生と昼食をとるときに考えさせられている。本当に、「そして毎日、心を一つにしてチャペルに集まり、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美する」大学で働くことの幸いを覚えている。