春を恨んだりはしない

書店には東日本大震災と原発関係の本があふれています。その中で最も興味をそそられたのが池澤夏樹『春を恨んだりはしない』です。ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩の一節、「春を恨んだりはしない 例年のように自分の義務を果たしたからといって 春を責めたりはしない わかっている わたしがいくら悲しくても そのせいで緑の萌えるのが止まったりはしないと」(「眺めとの別れ」『終わりと始まり』)からその表題はとられています。
池澤氏の本は、だいぶ前に『静かな大地』を読み、旧約学者秋吉輝雄氏との対談『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』を斜め読みしたくらいです。秋吉先生には、立教の旧約学演習で一対一の講義を受けたことがありました。旧約聖書と星座についての考えたこともなかったような講義でした。それはさておき、池澤氏は、『春を恨んだりはしない』という小さな本を書くのにいつになく苦労したと言います。「書いているうちに間違った道に入り込んで戻り、頭を抱える。その合間に何度となく被災地へ行って走周り、人に会って何かを知ろうとする。だが大事なものがどうしても掴めない。焦っている自分をなだめる」 この戸惑いが、山のような震災本の中で本書を際立たせているように思います。
旧約聖書の思想を思い巡らし、大船渡のカトリックの医師で聖書を気仙語に翻訳した山浦玄嗣氏との出会いのことなども記されています。池澤氏は、山浦氏の講演を聞いて言う。「(ぼくにとっては)驚くべきことを言った―祈るとは自分勝手な願いを神に向って訴えることではない。祈るとは、自分は何をすべきなのか、それを伝える神の声を聴こうと耳を澄ますことである。教えを乞うことである。自分は斧なのか、槌なのか、あるいは水準器なのか、それを教えてほしい。それがわかれば、神意のままに身を粉にして働くことができる」
末尾のことばは、「こういうことを考えながら、前へ出ようと思う。」です。