「ひとりを大切に」

謹賀新年。北陸や北日本の日本海側地域は荒れる天候で大雪に見舞われるという予報の中、ここ千葉県印西市は快晴の元日を迎えた。寒いが澄んだ空気と太陽に照らされた家屋と木々の景色は、「この年を穏やかに」という強い願いに導く。近年、情報が世界大となったせいか、各国・各地での暗いニュースが日々飛び込んでくる。体制への爆弾テロで多くの犠牲者が出る。覇権争いで紛争が勃発し部族同士が殺し合う。内戦に伴う難民は隣国に逃れて言い知れぬ不安と窮乏を強いられる。多くの難民を抱えた国々もその民族バランスが崩れ、政局が揺らぐ。また、自然の猛威に晒された被災者は、愛する者を失い、家屋の倒壊と失業で途方に暮れ、行き場を失って呆然と立ちつくす。さらに、日本を取り巻く東アジアも、各国の利益と大義名分で互いに相手を非難し相手を封じ込めようと躍起になる。世界は各地で分断され、人と人の絆が切れて互いに孤立し対立を深めているように見えてならない。

分断と対立、そして孤立は、互いに敵意をむき出しにし、猜疑心と不信を助長する。そしていつもその犠牲となって傷つき倒れるのは、時局に翻弄される婦人と子どもたちである。彼ら「ひとり」は顧みられず、その叫び声も消されてしまう。「ひとり」が覚えられない。「ひとり」がかき消されてゆく。それぞれにその生活があり、人生がある。これまでの絆があり、営みがある。それが一瞬にして奪われ、悲痛と混乱の中に追いやられる。そのような状況が世界で散見される昨今、心が痛み、何とかならないものかと腹立たしい思いとなる。社会の仕組みを変えることによって、誰もがその生をそれなりに営むことができるようになることの大切さは分かる。しかしそのプロセスの中で、その社会を構成する「ひとり」がかき消されてゆく現実も他方にある。徹底的に「ひとり」を大切にする人々やグループが歴史の中で起こされている。「愛が冷えてゆく」時代、「ひとり」を大切にする人々とともに行動したいものだ。

抽象的な全体指向の世相にあって、ひとり一人が創造主なる神の「かたち」として造られた意義を覚えたい。同時に、すべての人がその神に背を向け自律と覇権を争う現実もしっかりと押さえておきたい。この世界のただ中に、神はその「独り子」イエス・キリストを遣わし、人の背反の罪をキリストに負わせられた。キリストは十字架の死をもって人の罪を贖い、その復活を通して背を向けるひとり一人に、ご自分への人格的な信仰を通して神への「立ち返り」を求める。そこに「ひとり」の人格的な再生をもたらし、ひとりが生かされ、ひとりを生かすいのちの絆が広がってゆく。イエス・キリストがもたらした変革は、ひとりに向かい、ひとりを重んじ、ひとりの人格を大切にするものであったことを改めて覚える。昨年注目された「八重の桜」に登場する八重の夫新島襄は、「諸君よ、人一人は大切なり。一人は大切なり」と同志社英学校創立10周年記念礼拝(1885年)で語ったという。「ひとりに目をとめていのちを通わせる」、そのような交流を大学という場で、教会という場で培ってゆきたいものだ。

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15:7)